日本という、キリスト教にとってはまさに異教の地にあって、信仰を証しし続けることは難しいことです。すぐにくじけてしまいそうになります。誰も私の話を聞いてくれない、とあきらめそうになります。 それはこの手紙を受け取った人々も同じでした。手紙の冒頭には、この手紙が各地に離散して暮らすキリスト者に宛てて書かれたことが記されています。周りを見回しても敵ばかりの社会。誰も耳を傾けてくれません。いや、話を聞いてくれないばかりではありません。自分たちの行いが密告され、裁判に掛けられる可能性もありました。社会を乱す輩として裁かれてしまうかもしれません。ひいては、死をも覚悟しなければならなかったのです。 そのように厳しい状況の中で、迫害の苦しみの中で、イエスの十字架が彼らの助けとなりました。 「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(ペトロの手紙一2:21)。 この言葉を聞く者は、手紙の差出人にもなっているペトロの生涯を思い浮かべたのではないでしょうか。彼は64年のネロ皇帝による大迫害で命を落としたと伝えられています。新約外典『ペトロ行伝』では、自ら逆さ磔を申し出てさえいます。たとえ殉教の死を前にしても、最後まで信仰を貫けるという希望を、その生涯から学んでいたように思えます。) では、辛く厳しい社会の中で、どう生きることがふさわしいというのでしょうか。 どんな時代にあっても、神に全てを委ねて生きなさい。それが手紙のメッセージです。たとえどのような社会にあったとしても、その社会の中で生きてゆきなさい。手紙ははっきりとそう語りかけています。たとえ日々の生活に不満があろうとも、その不満を自分の中に生かすのです。神のことを思わない人々の中で、神を証ししていく。困難なことばかりかもしれませんが、それこそがキリスト者の生き方であることを教えてくれています。厳しい状況であったとしても、その全てに従い続けなさい、と。 宗教改革者ルターは、キリスト者とはどのような存在かと問われ、次のように答えています。 「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。同時に、キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」(「キリスト者の自由」)。 自由というのは、人間本来の生き方だと哲学者は言います。しかし、キリスト者に与えられた自由は、決して人間のわがままのことではありません。自由は、神から与えられた賜物です。自由は、神と隣人への奉仕という服従の生活において全うされます。たとえ、この世にある全てのものが自分の気に入らないとしても、それも全て神が造られたものであることを受け入れて生きる。神が造られた仕組みに従って生きていく。その生活の中で、本当の神の思いがわかってくるだろう、と手紙は言います。そして、神の思いがわかってくると同時に、その生き方そのものがイエス・キリストを証しするものであることがわかってくるのだ、と。 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(ペトロの手紙一2:15)。 愚直に、神の思いを実行し続けること。善を行いつづけること。それがキリスト者の生き方なのです。その時、私たちの人生は輝きを放つでしょう。 しかし、私の人生が輝いているのは、私が優れているからではありません。私の内に生きているキリストが輝かせてくださっています。私たちの罪を担い、私たちを赦し、私たちを愛してくださるイエスが、私たちの内で輝き、その光が私の体を通して全ての人に届いています。私を含めて、全ての人は、その輝きに心打たれます。虚栄心から出る偽りの輝きではなく、本当に全ての人のために生き、全ての人のために死んだイエスの十字架の光に心打たれるのです。 私たちは、そのような自由な人として行動し、生活するようにと勧められています。ですから、ここで言われている「僕」とは、「ただ命令に従うだけの存在」「自分で考えない存在」ではありません。一個の存在として、自分で考え、自分で活動していく存在です。神の思いに聞き、神の思いを確認しながら、自らを律する存在です。そして、他者に配慮しながら、共に生きる存在です。 「一人で生きている」と思っているうちは、神のことも、他者のことも、そして自分のことも、本当の意味ではわかっていません。自分の映し鏡だったり、自分の願望だったり、自分の欲望だったりがそこに見えているに過ぎません。それゆえ、神に聞き、他者に配慮しながら、神と隣人と共に生きていくことが大切なのです。 ただ、気をつけなければならないのは、「がんばる」ことが求められているのではない、ということです。「がんばっている」と自分で評価している限り、自己満足しかありません。また、「がんばっている姿」を誰かに見せることが大切なのでもありません。「がんばる」ではなく、真摯に生きることが大切です。 最後に、脳科学者である茂木健一郎の言葉を紹介します。 「『やる気』があろうがなかろうが、とにかく続ける、という粘り強い態度が、『グリット』(grit やりぬく力、続ける力)にはむしろ向いている。毎日、燃える闘魂で10年も20年も続けるわけには行かない。むしろ、淡々と、やるべきことをやることで、遠くに行くことができるのである。 『グリット』は、むしろ、それを実践している人にとっては、呼吸をしているのと同じで、だからこそ、フラットに、ずっと続けることができる。一方、いわゆる『意識が高い』ことを自分に強要すると、かえってそれが邪魔になって、息切れして、続けることができなくなるのである」(茂木健一郎 on Twitter 2016.09.03)。 真摯に、愚直に神の思いに聞き続け、自由な神の僕としての歩みを「がんばらずに」続けて参りましょう。
☆文字ををクリックするとメッセージが出ます☆