メッセージ


2013年12月29日聖日礼拝 「安心しなさい」 井上創牧師

 昔から、この物語は当時の教会の状況を表していると考えられてきました。嵐とは世の迫害や教会への無理解を表し、その荒波に翻弄される船は教会を表しているというのです。 そして、これは、マタイの8章とも共通しているのですが、その嵐の中で道徳となり、また嵐を鎮めてくださるイエスさまが共におられるという励ましのメッセージが汲み上げられてきました。 そういう伝統も承知の上で、私は少し疑問に思うのです。教会にとって問題となているのは嵐なのでしょうか。果たして、嵐の中で進めなくなってしまっている船には問題がないのでしょうか。 船頭多くして船山に登ると言われています。クルーがそれぞれに勝手なことをしていては、船は進まないでしょう。ましてや、嵐の中でお互いに声も届かないとしたら。
 私は船と嵐の箇所を読む度に、バベルの塔の物語を思い出します。旧約聖書、創世記に載っています。人間は協力をして天にまで届く塔を作ろうとします。しかし、、神さまによって、互いに言葉が通じなくなってしまうのです。 意思の疎通が滞ると、たちまち混乱が起こります。そして、塔は崩壊。人々は地上のあちこちに散り散りになってしまいました。同じことが嵐の中の船には起こっているのではないでしょうか。 助かりたいという自分の思いだけに囚われてしまい、お互いを大切に出来なくなってしまいう。そういうことが、教会の中にも起こっていたのではないでしょうか。まずは、己の中にある恐れと闘うこと。 世のいかなる嵐をも支配しておられるキリストを信じること。そして、信じたならば、クルー同士がしっかりと思いを交し合うこと。そうして船は進んでいくのではないでしょうか。
 2013年はまだ続きますが、この年の終わりに、年間標語をもう一度心に留めたいと思います。振り返りたいのは、一人ひとりの賜物が生かされていたかどうか。一人ひとりが大切にされていたかどうかです。 誰から大切にされていたのか。神さまからでしょうか。いいえ、あなたからです。あなたが一人ひとりを大切にしたかどうか。今年一年、教会の仲間で声をかけていない人はいないかどうか。初めて教会に来た人と友達になれたかどうか。 私はあなたを大切と思っていますよ、という気持ちを表せたかどうか。教会は誰かが作るものではありません。あなたが作るのです。みんなで作るのです。
 面倒だという気持ちもわかります。仲のいい人たちで楽しくやっていればいいという意見もあるでしょう。しかし敢えて、イエスは弟子たちを向こう岸へと渡らせるのです。何が待ち受けているのか誰にもわかりません。 教会は、それでも漕ぎ出していく船なのです。恐れているのは荒波ではありません。人間が恐れるのは異物です。自分と違うもの、自分の理解できないものを人間は排除しようとします。他国の人、 年齢の離れた人、障碍を持った人。そして、排除する際には、多くの場合、それらは忌まわしいものに置き換えられます。弟子たちは嵐の中でイエスの姿を見て幽霊だと思います。 自分たちとは相容れない何かが近寄ってくることに恐怖を覚えるのです。しかし、実は私たちが異物だと思い込んでいるものの中にイエスがおられるのです。私たちはそれに気が付きません。 自分とは違う他者の中に恐れを見出しているのです。
 変わりつつある時代の中で、自分の居場所が失われていくような感覚を持つことがあります。これを、黄昏と呼びます。黄昏は「誰そ彼」、つまり「彼は誰ぞ」に通じます。 時代や環境、周囲の人との間に生まれてくる距離感を感じることが黄昏なのです。私たちは、愛執を恐れるがゆえ、愛し執着して裏切られることが怖いために、自然と周囲と距離を作っていきます。 やがて努力が面倒、億劫になり、黄昏の時に入るのです。祈り求めたいと思います。洗礼を受けて、キリストに従う決意をしたのです。ペテロのように、「そちらに行かせてください」愛する者とならせてくださいと叫びたいと思います。
 「友のために命を捨てることほど尊いことはない」と聖書は言います。命を捨てるとは、単純に死ぬということではありません。「あなたの好きにしてください」と言って自らを捧げることです。 裏切られてもかまわない、変な人だと思われてもいい。執着する、関心を持つという事です。イエスは、見知らぬ他者の中に姿を現してくださいます。教会の中で、外で、愛することに傷ついた私に、 もう執着は止めようと思っている私に、「安心しなさい、わたしだ」「あなたに関心がある。あなたを愛している。あなたとわかり合いたい」と手を差し伸べてくださっているのです。 「主よ、助けてください」「愛する勇気をください」と祈り求めながら、支え合い、仕え合って新しい年へと歩みだしていきましょう。


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