メッセージ


「主の掘った井戸」 井上創牧師

 イエスは弟子たちを世に送り出すにあたり、さまざまな注意を与えた後で、そのまとめとして、今日の箇所の言葉を語りました。 私たちは、この箇所を読んで、自らを弟子たちの立場に置くこともできるでしょうし、反対に、弟子たちを迎える側の立場に置くこともできるのではないかと思います。 私たちが自分たちを弟子の一人だと思うとき、このイエスの言葉は、どこにいても私たちには助けの手が与えられるのだという励ましになることでしょう。 そして、私たちがこの弟子たちを迎える側の一人なのだと思うとき、私たちはこの弟子たちをどこに見出すことができるだろうと、しばし考え込んでしまうのではないでしょうか。
イエスは言います。「はっきり言っておく。私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」  この小さな者とは誰なのでしょうか。私たちが見出し、水を飲ませるべき人、教会において、小さな者。それは、子どもたちでしょうか、高齢の方々でしょうか。 障害を負っておられる方、心に大きな悩みを抱えている方。あるいは、初めて教会に足を踏み入れられた方でしょうか。私はこの「小さな者の一人」とは、あるいはイエス自身のことでもあるのではないかと思っています。 イエスほど、その身を自分で小さくした人はいなかったと思うからです。神様の前で従順に謙り、自らを罪人であると嘆く人と寝食を共にし、人々の痛みを同じようにその身に感じようと、十字架に上げられたのです。 私たちが、「小さな者」を見出そうとすることは、この最も小さくなろうとしてくださっている御方、イエスを見出すという事でもあるのではないでしょうか。
 それでは、私たちはこのイエスをどこに見出すことができるのでしょうか。それは、一人ひとりの中に、です。私たち一人ひとりと、イエスは共にいてくださるからです。そもそも、私たちにはほかの人の痛みが本当の意味ではわかりません。 仮に私が、熱が出て苦しいとします。その苦しさを理屈では理解できるとしても、今その苦しみを同じように味わうことのできる人がいるでしょうか。あなたの痛みと、私の痛み、どちらの方が痛いかという事を比べることは誰にもできないのです。 であれば、今世界中で、最も痛み、苦しんでいるのは私です。一人ひとりの私が、今最も癒しを求めて、痛み、苦しんでいるのです。わたしこそ、最も小さな者の一人です。 あなたこそ、最も小さな者の一人です。ここにいる一人ひとりが、小さな者なのです。
 私たちは互いに、水を与え合います。私たちは時に、水を与えられる小さな弟子であり、時に、水を与える側の人になるのです。どちらが偉いという事でもありません。 大切なのは、この一杯の水が、どこから来ているのかということです。水を飲ませている自分を私たちは誇りません。なぜなら、水が湧き出ていなければ、私たちはたった一杯の水さえも手に入れることはできないからです。 賞賛に値するのは、その水の出所を確かめ、井戸を掘った方です。
 私たちが、毎週ここに集い、交わりに感謝し、互いに慰め合うことができるのは、ここに教会があるからです。主なる神さまが。この武蔵野の地を選び、ここに聖霊の旗を立て、教会としてくださった。 深く井戸を掘り、恵みの水の湧き出るところとしてくださった。だから、私たちは今、互いに愛を交し合うことができるのです。これまで、多くの水を互いに注ぎ合うことができたのです。 この井戸の水は、乾いている全ての人のためのものです。この地に住まう多くの「小さい者」のために用意されたものです。小さい者とは誰ですか。私です。あなたです。 そして、まだ見ぬ、乾いている人たちのことです。私たちはこの方々のためにも水を用意しておきたいと思うのです。
 先週は雨の日が続きました。そのたびに、私が子供と口ずさんでいたのが「あめあめふれふれ」という歌です。歌ってみます。
 1.あめあめ ふれふれ かあさんが/じゃのめで おむかえ うれしいな/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン
 2.かけましょ かばんを かあさんの/あとから ゆこゆこ かねがなる/ピッチピッチ チャップ チャップ/ランランラン
 3.あらあら あのこは ずぶぬれだ/やなぎの ねもとで ないている/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン
 4.かあさん ぼくのを かしましょか/きみきみ このかさ さしたまえ/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン
 5.ぼくなら いいんだ かあさんの/おおきな じゃのめに はいっていく/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン
 主人公であることもが、見ず知らずの子供に傘を貸すことができたのは、お母さんの大きな傘があったからでした。お母さんが傘を持って迎えに来て切れたことの喜び、 その大きな傘にはいいていけば大丈夫だという信頼。それらがあるからこそ、愛することができる。私たちも、主の愛を好み一杯に受けたいと思います。 そうしてこそ、私たちに与えられた一杯の冷たい水を、施すことのできる者へと変えられていくのです。喜びを持って、この水を誰かに分け与えていけたらと思います。 主の愛の湧き出る井戸として、これからも教会の働きが祝されますように。


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