洗礼という儀式には、生まれ変わりの意味があります。洗礼式で水を用いるのにも、そういった理由があります。
旧約聖書、ノアの洪水を経て、人類が生まれ変わったように、イスラエル民族が川底の道を通って新しい土地へと導かれたように、新しい者へと変えられていくのです。
しかも洗礼で意識されているのは、ただ死んで、生まれ変わるという事だけではありません。そこには、キリストの十字架の死が重ねられています。
イエス・キリストは、十字架の死の後、墓に入り、三日目に復活しました。このことが何を意味しているのか。マタイはその意味を、旧約聖書のヨナ書に登場するヨナの物語と重ねて語っています。
何から何に生まれ変わるのでしょうか。ヨナは大きな魚に飲み込まれて、その腹の中で三日間を過ごします。この三日の間、ヨナに何があったのかという事を、聖書は詳らかにはしません。
ただ、魚の腹の中で祈られた祈りは、滅び去ろうとしていた自分の命を救ってくれた神への感謝に満ちたものであったことがわかります。
それまで、神さまを避けて、神さまに逆らっていたヨナが、感謝に満ちた心からの祈りを通して、御心に忠実に生きる者へと変えられたのです。
それまでの逃げ回る人生から、使命を与えられて確かな一歩を歩みだすものへと、かえられていくこと。
それは、死から命への変化とも言えます。この世界に、いったい何故に置かれているのか。自分で望んで生まれたわけではない。
望まれて生まれたのだ。では、誰に、何を望まれて生まれたのか。私たちの本当の親である神さまに出会ったときに、私たちはその答えを、生きていく意味を、本当の命を、これ以上はないという完璧な命を、いつまでも変わることのない永遠の命を与えられるのです。
洗礼とは、このキリストの死と復活の追体験でもあります。新しい人生の喜ばしい始まりです。しかし、私たちは、残念なことに、この洗礼の喜びを、新しいキリストの命の証を、忘れて生きていることがあります。それどころか、キリストの十字架を信じることができずに、
今このときにおこる新しい奇跡を求めてしまうこともあるかもしれません。律法学者やファリサイ派たちのことだけではないのです。この病が治るように、この悲しみが拭い去られるように、この問題が解決するように、
キリストの十字架以外の、何かの軌跡がここになければならないと思い込んでしまうことが私たちのもあるかもしれません。
あのとき奇跡が起こらなかったのだから、神はいないのではないか。今この時、奇跡が起きないのならば、私は見捨てられたのではないか。
そうやって、救われていることの証拠のように神さまの御業を捜してしまうことが私たちにはあるのではないでしょうか。
41節ではニネベの人々が、私たちを裁く側の存在として描かれています。つまり、神さまの御心を忠実に行ったが故に、彼らは正しい者たちとして認識されているのです。
ニネベの人々の何が御心に適ったのでしょうか。悔い改めたことでしょうか。それだけではなかろうと思います。ヨナが告げた神さまの言葉を聞いて、それを信じたから。
何かの奇跡を見た。証拠が与えられたからではなくて、聞いてそれを信じたから、この人々は讃えられているのです。
42節に続く、南の国の女王も確か足る証拠を目にする前に、何かの力を感じて、導きを信じてイスラエルまで来たのではなかったでしょうか。
ある夫婦、妻が夫に言います。「本当に私を愛しているなら、その証拠を見せて。」証拠がなければ、信じられないのだとしたら、もうそこには愛はないのです。愛するというのは、相手を信じることです。
この人にならすべてをぶつけても大丈夫。きっと受け止めてくれる。そう信じられる関係の中にこそ愛はあります。最も貴い愛は、友のために命を捨てることであるとイエスは言います。
これは、ただ無駄に命を捨てるという事ではありません。この人なら、私の命を、意味のあるものにしてくれると信じて託すという事です。
イエス。キリストは、私たちを愛するが故に命を捨ててくれました。それは、つまり、私たちを信じたという事です。この十字架の死を通して、天におられる本当の親が、あなたを心から愛しているのだということに、必ず気付いてくれると、信じたということです。
私たち一人ひとりが、それに気付くのだと信じて、命を憩けてくださったのです。
洗礼の時に意識される死は、キリストの十字架の死です。私たちは死んで、生まれ変わって、
気持ちよく素敵な人生を歩みだすというわけではありません。その死に込められた意味が大切です。私たちは他者への愛の故に死ぬのです。自分が助かりたいから洗礼を受けるのではありません。
神さまを信じ、人を信じる者として死ぬのです。私のすべてを受け止めてくださるお方がいると信じて死ぬのです。そして、その死の底でイエスに会える。だからこそ、私たちは洗礼の後の人生を豊かに生きていくことができるのです。
救われているかどうかという証拠など要らないのです。今ここで奇跡が起こらなくても、何の心配もいらないのです。私はあの時、すべてを委ねて死んだではないか。そのことだけが、十字架の主が共におられたという実感だけが、私たちを真に生かすのです。