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「主が招いてくださる者ならだれにでも」2015年6月7日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 ペンテコステの日、ペトロの演説を聴いた人々は心打たれました。「感動した」というよりはむしろ「衝撃を受けた」と言い換えてよいでしょう。 自分たちの来し方を振り返り、自らの手が犯した罪を実感したからです。イエスを十字架へと送り出し、殺してしまった。神の子を殺してしまった。 その事実を突きつけられて心が乱れます。そこで、彼らはペトロに向かって問いかけました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(使徒2:37)と。 これは先の見えない自分の道を模索する問いです。自らの存在意義を問う問いです。どうすればこのような自分が救われるのだろうか、との。
 もちろん、全員が全員、同じような衝撃を受けて自問自答したわけではないでしょう。その多くは弟子たちを馬鹿にしていたかもしれません。しかし、 「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」(使徒2:41)とあるように、少なくとも3千人もの人々がペトロの言葉に衝撃を受け、 自分自身のあり方を見つめたことは間違いありません。
 では、ペトロはそんな人々にどのような思いを持ったでしょうか。ペトロの前にいる会衆は紛れもなく、「棕櫚の主日」に「ホサナ」と言ってイエスのエルサレム入城を 迎えた者たちであり、受難の日にイエスを「十字架につけろ」と叫んだ者たちでした。あの時はあっさりと裏切りながら、また今度は手のひらを返したようにすがりついてくる。 「苦しい時の神頼み」、そのように受け取っても良かったはずです。しかし、ペトロはそう受け取りませんでした。
 なぜなら、自分自身もまた、イエスを裏切った一人だったからです。ペトロにとって「一度イエスを裏切ったこと」は問題ではありません。というより、 神がその点を重視されないことを体感していました。
 「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った」(ルカ22:33)。そこまで覚悟を決めたつもりであった自分でさえ裏切ってしまう。 神の前に人間は本当に小さい存在に過ぎないということに改めて気づかされました。その小さな人間にイエスは聖霊を与えると約束され、そして事実、今日、この時、 自分を含めた弟子たちに聖霊が注がれた。その喜びが先に立っているのです。
 使徒を代表してペトロが人々に告げたのは、聖霊を受ける約束は「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも」与えられるということでした。 今、ここにいる会衆だけでなく、子どもたち、つまり時間を隔てた未来にも、そしてまた空間を隔てた「遠くにいる人」にも、聖霊の働きは及ぶ、と。
 ここで言う「遠くにいる」とは、ただ単に物理的な距離だけではないかもしれません。たとえすぐ隣に座っていたとしても、社会的地位や民族性の違い、貧富の差、 性の違い、障がいの有無、差別など、互いに隔たり「遠くにいる」人がいます。しかし、主の招きは、そういう人間の作り出した隔たりを超えて届けられるのです。
 そして、招かれた一人一人は集められ、互いに交わります。それが教会です。「交わり」と訳される「コイノニア」という語は、もともと「分かち合う」という意味を 持っています。どんなに隔たり、「遠くにいる」人であっても、一つの聖霊を共に分かち合っていることを認め合い、信じ合うところに、教会の交わりは成立します。 そして、その「聖霊の交わり」は私たちの思いを遙かに超えた遠くにまでつながっているのです。
 私たちもまた罪を赦され、この「聖霊の交わり」に招かれた一人です。私たちもまたこれからいつどこで神を裏切るか分からない一人です。聖霊はペトロの口を通して私たちに語りかけられます。  「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、 与えられているものなのです。」(使徒2:39)
 こんな私たちでさえ赦される。こんな私たちでさえ約束の輪に入れていただいている。そうであるならば、私たちの周囲にいる一人一人もまた、私たちと同様にこの輪に 招かれているに違いありません
 一人一人が違うのは当たり前のことです。ペトロの言葉を聞いてすぐに受け入れることができなかった人がいたように、私たちの周囲にも未だこの恵みに気づいていない人がいます。 教会の内にも外にも。そんな一人一人の傍らに寄り添って、違いを認め合い、互いを許し合い、受け入れ合う群れとなっていきましょう。



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