メッセージ


「やわらかい土」 井上創牧師

 お米の国で育った私たちには、収穫の風景といえば、田んぼに整然と並ぶ稲の姿が思い浮かぶのですが、この頃の麦の種蒔きは、手で種を撒き散らして、その後で耕して土をかぶせていました。 そのため、畑のどこに種が蒔かれているのかというのは芽が出てみないとわからなかったわけです。まさか、というところから芽が出てみたり、落ちるところが悪ければ、芽が出ないということもあったことでしょう。 実っても、日本の田んぼのようにきちっと列が整っているというわけではないので、刈り入れもまばらになりますし、力加減によっては、落ちる穂というのも大量にあったのだろうと思われます。 麦というのは、蒔いた量に対して、収穫の量はそれほど多くはなかったのです。更に、日照りや害虫などの被害もあったであろうことを思えば、農夫たちの生活はかなり苦しいものでした。 イエスがこのたとえ話を語るとき、聞いている人々の中には農業で生計を立てている人も多くいたはずです。そういう人たちは、聞きながら、自分たちの生活の風景を思い出していたのではないでしょうか。 せっかく蒔いた種が、実らずに朽ちていく様子をリアルに想像できたはずです。ところが、とイエスは言います。中には、よい土地に落ちた種もあったのです。 そして、その種は実を結び、豊かな収穫へと導かれました。イエスの時代は神さまの祝福とは、豊かな実りが与えられることであると考えられていました。 非常に現世利益的なものの考え方なのですが、一方で、誰にでもわかりやすい祝福のイメージでした。イエスは豊かな実りが与えられるという最後の場面を通して、神さまからの祝福の姿を描いているのです。
 19節からの説明の中では、一つ一つのところにまかれた種を通して、与えられた御言葉に対していろいろな態度で臨む人たちの様子が描かれています。 御言葉の意味を履き違えて受け取る人、拒否する人、すぐに気持ちが変わってしまう人、安易に自分にフィットする御言葉だけを受け入れようとする人。 様々な人がいる中で、与えられた御言葉によって悟る人には、多くの恵みが与えられるという解釈です。これは、原始教会においては妥当な解釈なのだろうと思います。 教会形成の過程においては、信者に対してであっても、このように厳しい篩い分けが必要だったのでしょう。しかし、語っているイエスはどうでしょうか。 恐らくそういう意図はなかったことでしょう。マタイはこの13章に、自分の聞いたたとえ話をまとめて乗せています。そして、そのたとえ話は、今日の箇所以外は残らず、「天の国」についてのたとえ話です。 ということは、この種まきのたとえもまた「天の国」について述べられていると考えるのが自然ではないでしょうか。この話は、御言葉に向かい合う一人ひとりの態度について言及しているのではないのです。
 イエスがこの地上に来て、いよいよ天の国が到来するという宣教の業が開始されます。しかし、その実現までは尚、多くの徒労や失望と思える過程を経なければならない。 日照りや誘惑の日々を潜り抜けていかなければならない。それでも、その向こう側には必ず、すばらしい終末の時と喜びが約束されている。 農夫の蒔く種はその全てが実るわけではなく、多くは無駄になっているように見えるが、それでも豊かな収穫が与えられる。 天の国も、人の目には失敗や後退と見えるようなことがあっても、最後には圧倒的な成果を伴って出現する。だから、福音を語るものは挫折してはならない。 諦めずに宣べ伝え続けていこう。そういう希望、励ましをイエスは私たちに語っています。
 今日は礼拝後に、60周年記念について考える会を持ちます。まだ5年先の話なのですが、今改めて教会の歴史について振り返りながらの歩みは重要であろうと思われます。 ここまでの教会の歩みは決して平坦なものではありませんでした。しかし、どのときにも神さまがこの教会と共に歩んでくださったのだということを思い出すことは、大きな恵みとして私たちの教会に多くの喜びをもたらすのではないでしょうか。 キリスト教にとって痛みは大事な要素です。神さまは、貧しい人、弱っている人、平和のために迫害される人と共にあるとイエスは宣言されます。 しかし、私たちは痛みの時を避けたいと思いがちですし、過去の痛みを忘れてしまいたがります。そういう私たちにとって、この五年の時間を歴史の痛みと、それを超える救いを感じながら歩んでいくことは、神さまの恵みをよりしっかりと実感することへと繋がっていくのはないかと思うのです。 しかも、それを共通のものとして形にしていく作業は、私たちそれぞれの交わりにおいても多くの実りを与えてくれるものであると信じたいと思います。,br/>  一人ひとりの歩みの上には様々な困難も置かれていることでしょう。日照りの道、石だらけの道、茨に閉ざされた道。 しかし、最後には神さまが栄光の冠を授けてくださいます。やわらかな土の上に目いっぱい手を伸ばして憩う時が来るまで、焦らず、たゆまず、一歩ずつ進んでいくことができたらと思うのです。


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