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無事に帰らせよ  2015年12月6日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 二千年の時を超えて、「喜びの知らせ」が今、私たちに伝えられます。口で言ってしまえばそれまでのことですが、この二千年間、その喜びの知らせを伝え、担ってきた人たちがいました。その人たちがいなかったら、喜びの知らせは私たちに届かなかったのです。
 そして、おそらくはその全てが皆、力強く信心深く、希望に満ちた勇者ではなかったでしょう。小さな信仰だったかもしれません。結果的に信仰を捨ててしまった者もいたでしょう。けれども彼らは、自らもまた伝える者となりました。あるいは自覚しないままに用いられ、あるいは自己認識以上に用いられたのです。
 預言者ミカヤもそんな一人です。ユダの王ヨシャファトは、四百人の預言にもかかわらず、預言者ミカヤから主の言葉を受けます。彼は他の預言者とは異なり、「主がわたしに言われることをわたしは告げる」(列王記上22:14)と、あくまでも神から与えられる言葉を伝える意志を貫きます。しかし、ミカヤが王の前で語った預言は、他の四百人の預言者が語った言葉と同じでした。それは空気を読んで、他の預言者に追従したためではありません。彼には、イスラエルの人々が、羊飼いのいない羊のように山々に散っている様子が見えています。この現実を前にして、「彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ」(列王記上22:17)との神の言葉を受けて、語りました。神の意思は「彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ」にあります。目の前の戦闘の勝利は、いわばその副産物に過ぎないのです。
 私たちの暮らす社会において、ニートやフリーター、インターネットカフェ難民という言葉はすっかり定着しました。彼らは実態のない相手と、さも密接につながっているかのように感じています。彼らにとっての社会とは、そこでつながるほんのわずかな隙間から見えてくる社会に過ぎません。人間関係はどんどん希薄になっていて、表面上のつながりだけ、お追従の言葉だけが上滑りしています。だから、相手の心情をおもんぱかることのできないような言葉が、インターネットを飛び交っているのでしょう。
 都会には、預言者たちの言うような山はありません。しかし、ビルの谷間をさまよう彼らの姿は、預言者ミカヤの語る「羊飼いのいない羊のように山々に散っている」(列王記上22:17)人々の姿に重なります。この世界の中で何かに頼りたいと願いながら、それを見つけられずにさまよっています。
 「ホームレス」と呼ばれる人々がいます。語弊があるかもしれませんが、彼らは決して帰る家を持たない人々ではありません。彼ら には眠る場所はあります。それは、ネットカフェに暮らす人々も同じです。そこに帰れば眠ることができます。ですが、彼らが所有しているのは「ハウス」に過ぎません。屋根があり、雨露がしのげる場所ではあるけれど、所詮は「ハウス」なのです。
 その空間を何とかくつろげるために、人々は苦労しています。『ダンボールハウス』、『仮設のトリセツ』に出てくる人や家は、やはり山々に散らされている人々の姿に重なります。「マイハウス」を所有していながら、そこが「マイホーム」ではない人々の姿です。「家」は、単なる場所としての「家」ではなく、結びつきとしての「家」であるということです。贅沢はできないかもしれないけれど、安心できる場所。そこから立ち上がる力を得て、新しく一歩を踏み出せる場所。それが「ホーム」です。「ホームレス」とは、その結びつきとしての家を持たない人々のことなのです。
 では、神は私たちをどちらの家に連れ帰ろうとしてくださるのか。当然、単なる「ハウス」ではないでしょう。この「ホーム」こそ、神が導かれるところなのです。
 散らされた人々の「帰宅」は、二千年前、イエスによって実現されました。イスラエルの民にはその「ホーム」である神の下へと帰る道が示されました。
 しかし、私たちの前にある現実は、その前提をも覆そうとします。誰も救われてなどいないではないか。救ってくれる神などいないではないか。誰も私を顧みてくれないではないか。そんな言葉が聞こえてくるようです。そればかりか、安全と平安を求める人々は「ホーム」からますます遠ざけられようとしています。
 どうすれば、この状況から脱することができるのでしょうか。
 私たちは、聖書の中に「永遠の命」があると考え、聖書の学びをします。しかし聖書それ自体に「永遠の命」はありません。その原料、その材料がたっぷりと詰まっています。それが「永遠の命」となるためには、土の器を媒介として人々にそれが証しされなければなりません。今こそ、神と人々から切り離されて散っている人たちに呼びかけるイエスの働きが、求められています。神はミカヤに語られたのと同じ様に、私たちにも語りかけられています。「彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ」(列王記上22:17)と。
 キリスト教の二千年の歴史を振り返る時、まさに土の器によって神の言葉が担われ、証しされた歴史がそこにあります。アドベントのこの時、土の器である私たちは、再びこの証しの歴史へと招かれています。「ホーム」に「無事に帰る」ことのできた私たちは、今度は「証し人」としてこの地上に立ち続けるのです。


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