武蔵野扶桑教会の皆さんと共に礼拝を献げられますことを心より感謝をいたします。この日(4月12日)、東方正教会では復活大祭(パスハ)、 つまりイースターでございます。御茶ノ水に建つ東京復活大聖堂、通称ニコライ堂でも深夜から明け方にかけて復活大祭が行われました。実は私、 この復活大祭に参加してまいりました。ニコライ堂の信徒である畏友と共に、4時間半ずっと立ちっぱなしで参祷したのです。 深夜0時、鐘が三拍子で響き渡るなかロウソクを手にニコライ堂界隈を行進し、奉神礼のさなかには持参したイースターエッグや買い求めた菓子、 そして自分の体にも主教様から聖水を振りかけてもらい、祝福していただきました(眠気覚ましという説もございます)。立ちっぱなしと言えど、 意外と動作が多くて、あっという間でした。朝4時半からの愛餐会を経て、9時頃まで新宿で友人とお茶を飲みつつ人生について語り合い、 そして彼に見送られて御教会まで伺った次第でございます。徹夜明けで伺うのが失礼にならないか、不安に思っておりましたが、意外にも心は熱く燃えており、 北村牧師の代わりに説教壇をお預かりできますことを嬉しく思っております。 ニコライ堂ではイースター(パスハ)の挨拶として、「ハリストス(キリスト)復活!」「実に復活!」と言い交わす習慣がございます。慣れるとなかなか良いものです。 プロテスタントでは「イースターおめでとうございます」等と言うことが多いみたいですね。申し上げるまでもなくイースターはイエス・キリストが復活したことをお祝いする日ですが、 さて、復活を祝うって、どんなことなのでしょう。 たとえばクリスマスはキリストがお生まれになったことをお祝いします。誕生を祝うことはわかりやすいですけれど、復活はどうでしょう。 教会に馴染みのないご家族に「イースターおめでとう」と言ったら、相手は何が「おめでとう」なのか、わかるでしょうか。我が家の近所にあるスーパーマーケットでは、 イースターは「家族で茹で卵を食べる春のお祭り」と説明されておりましたが。…ここにおられる皆さんの中に、完全に息を引き取ったはずのご家族やご友人が生き返ったことを お祝いした人はいるでしょうか。いるかもしれませんが、ほとんどの人にとっては未経験です。「イースターおめでとう!」という喜びの挨拶は、実は誰一人経験のない、 想像さえできないことを祝う言葉なのです。復活の出来事は、理解しようと努めても、理解の範疇を軽く超えてしまうことです。でも、それでいいのです。 私達がこの世界で自分がつかみ取れることなんてほんの僅かです。ほとんどない、と言ってもよろしいでしょう。でも、その人間を遥かに超えた神様が、 私達を見つけ、出会い、深く関わってくださっている、そのことを信じられることは、ほんとうに有り難いことです。神様はイエス・キリストを私達の救い主として世に使わしてくださいました。 キリストは人として共に生きてくださり、私達のために十字架にかかって死なれ、そして、復活してくださった…どれだけ世界が馬鹿げたこととしてそれを笑おうとも、 このことはずっと二千年近くも消えずに私達に伝えられ、また私達も次へ伝えていくのです。 今日読まれました「エマオで現れる」という物語は、「マルコによる福音書」では全てのおしまいに、オマケみたいな形で載っている短いエピソードでした。 田舎道を歩いていた弟子たちに、イエス・キリストが別人の姿で現れる、という大変短いお話です。それをルカは、おそらく様々な言い伝えも混ぜながら、 このような福音書の中でもとりわけ美しい物語に仕上げました。「わたしたちの心は燃えていたではないか」、死を超えてよみがえられたイエスさまに再び出会い、 命の熱を確かに感じる弟子たちの姿を、ルカは描きます。 イエスさまは様々な場所でお弟子さんたちに現われます。今日私が皆さんに伝えたいことの一つは、イエスさまは必ずご自身から人々に会いに来られるということです。 お弟子さんたちが積極的にイエスさまを探し当てることはありません。何人かの女性たちやペトロはお墓の中にイエスさまの遺体を探しに行きましたが、もうそこにはイエスの体も魂もありません。 しかしイエスさまは、エマオに向かう田舎道を、正体を隠して弟子達と共に歩き、また、今日お読みした箇所でも、ご自分から弟子達に近付かれます。たとえ弟子達が復活を信じられなくても、 驚きのあまり言葉を失っても、イエスさまはそこに来られます。皆、不安や戸惑いをもって復活の物語に加わって行きます。それは弱さを責めているわけではありません。 むしろ、この物語を読む人に、人はただうろたえるのみ、どこまでも信じられない自分におののくのみであることを気付かせてくれるのです。イースターの物語は、本当に不思議です。 巡る季節ごとにイエスさまの復活に聖書を通して触れるとき、多くの人は「これは本当の出来事なのか」と戸惑い、復活の物語を信じられない自分を見出します。 でも、人が抱いた戸惑いや信じられない心にもなお、復活の物語が語りかけられ続けるのです。 今年度はイースターの当たり年です。2015年度の始まりをイースターで迎え、また年度の終わりもイースターです。無牧の経験をされる中で迎えられた先週のイースターと、 北村牧師をお迎えしてお祝いする次回のイースターとはきっと違うはず。武蔵野扶桑教会の歩みに、神様は新しい命を吹き込んでくださっています。今、この時も。
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