メッセージ


「時代のしるし」マタイによる福音書16章1~4節  井上創牧師

 「梅は咲いたか桜はまだかいな。」道を歩き梅の花を見ると春の訪れを感じます。日本でも古来より、季節のしるしを知り、味わう習慣があります。 次に何が起こるのかという兆候(しるし)を知ることは、人生を楽しむといることだけではありません。それは生きやすくなるための知恵ともいえるでしょう、聖書では、 こういった知恵は神から与えられる賜物であると考えられています。そして知恵は、神さまとの信頼の関係の上に築かれた人間の経験や歴史から学ぶことができます。
 ファリサイ派とサドカイ派は本来ならば水と油なのですが、打倒イエスで結託して、「しるしを見せて欲しい」とイエスに詰め寄ります。これは、あなたの言うことが真のものであるならば、 神さまからの賜物であるならば、その証拠(しるし)を見せろという事でしょう。もしも心から信じているならば証拠はいらないものです。しかし、私たちは自分の経験に固執して、 「このことは経験上、受け入れられない」「本当ならば証拠を見せろ」と言ってしまいがちです。そういった経験や証拠に基づく信頼は、それを上回る出来事を前にして揺らぎます。 苦しみ、痛み、死などです。
 自分の思いを先に立てて物事を考えてしまう私たちに、イエスは信仰の目によって、歴史の中に現れた神さまの思いを示しています。旧約聖書のヨナの物語です。 ヨナはニネベの人々に預言を届けるという使命から逃げて、嵐に遭い、海に落ちたところを魚に呑まれてしまします。魚の中で三日三晩祈りを捧げたヨナは、魚の腹を出てからは、生まれ変わったかのように使命に臨んでいきます。 ヨナが、三日三晩魚の中にいたという物語はイエスの復活を示唆しています。この時代に神様から与えられるしるしはイエスの十字架と復活しかない、ということなのでしょう。
 また、ヨナが訪れたニネベは異邦人の町でしたが、人々は証拠を見ることもなく、悔い改めて神さまを信じる者たちへと変わっていきます。そもそも、イエスの宣教は 「天の国は近づいている。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉によって始まりました。ニネベの人たちのように、悔い改める者たちによって福音が世界へと告げ広められていくことも、 ヨナの物語から知ることの出来る、この時代のしるしなのでしょう。
 それでは、悔い改めるとはどういうことでしょうか。十字架と復活を信じる者が救われるとはどういうことなのでしょうか。 悔い改めることは生きる意味を変えることです。自分が何故生きているか。その答えの多くは、人間的な思いから生まれてきます。十字架の上ではそのすべての人間的な思いが滅ぼされます。 それらは、洗礼によって洗い流されます。だからと言って、過去は消えません。起こったことは変えられません。私たちがやってしまったことは厳然として残るのです。 しかし、キリストの復活によってそれらに新しい意味が与えられます。
 それらは失敗であったのでしょうか。いつまでも永遠に辛いままで残るのでしょうか。復活のメッセージは、死は終わりではないということです。全ての滅びは再生につながっています。 今最悪と思える出来事にさえ意味があるのです。イエスを通して起こった神さまの業を信じるならば、思い込みに生きた古い自分は死に、私たちには新しく生きる意味が与えられます。 神さまによって生かされていくのです。証拠はありません。信じられるかどうかだけです。つまり、神さまのご計画の内に意味を見出していけるかどうか。 全てのことは絶望に終わらないのだと信じられることが、もう救いなのです。
 このような、いつの時代も変わらない「しるし」を見た者は次の行動に移ります。雨が降ると知ったら対策を練るはずです。傘を用意したり、外出を控えたり。他の人にも伝えようとするのではないでしょうか。 農作業に従事している人たちの場合、天気の変化はもっと深刻です。互いの助け合いのために「しるし」を伝え合うはずです。そして、これが 地震の兆候ならばどうでしょうか。 放射能の危険性を知ったならば。今はどのような時代なのか、神様が与えてくれるしるしを知ることができるならば、対策を練ることで危険を回避することもできるでしょう。
 教会はしるしを見た者たちの集いです。復活の救いを知って、信じてその後どうするのか。私たち一人ひとりに問われています。自分だけが傘をさせばいいのでしょうか。 安全な場所を知っているはずです。ならばどうするのでしょうか。「雨が降る、傘が要る」と叫ぶこと。ここにいれば大丈夫と軒下を貸すこと。今日の午後の教会協議会では、 「伝道」について考えます。私たちの教会が、そしてそれぞれができることを一つ一つ吟味していくことができたらと思います。


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