メッセージ


「空の墓」2014年4月20日聖日礼拝 井上創牧師

   今日の聖書箇所はイエスの復活物語、その最初の部分です。ただ一点に注目したいと思います。そこに復活の意味を見出したいと思います。 イエスの遺体を納めた墓が空でした。墓というのは何を意味しているでしょうか。百年もすれば、私を含め、ここにいる人はおそらくみんな、墓に入ることになるでしょう。 墓とは、人生の末に辿り着く終焉の場所です。特に、旧約の歴史に生きる人たちにとって、先祖の墓に葬られること、そのれに加えられることは最上の喜びでした。最後の、 魂の落ち着きどころ。安住の地が墓だったのです。そういう文化はイスラエルに限ったことではありません。
 この墓が空でした。「空しい」という字を、漢字で「空(から)」と書きます。空(から)とは虚ろであり、寒々しさを感じるような響きを伴っています。死のもたらすものは、 正にこの空虚な結末です。積み上げてきた物が一気に消えてしまう。感情も記憶も闇に閉ざされます。しかし、この空である墓に、キリスト教は喜びを見出すのです。 先ほどみなさんと唱和しました、信仰告白の後半部分、使徒信条と呼ばれる部分にこうあります。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り」。 キリストは死んですぐに甦るのではないのです。ちゃんと葬られたということが、まず大事です。
 葬りとは生きている人たちのものです。生きている人たちが、死んだ人をしっかりと死なせてあげるための儀式です。心の中では生きているという状態のままでは、 日常生活に戻れない。だから、しっかりと死んだことを悲しみ、受け止める作業が葬りなのです。イエスの周りにいた人たちも、イエスは死んだのだとしっかり受け止めたのです。 ですから、復活とは、確かに死んだかもしれないけれど、私たちの心の中には生き続けている、といった類のものではないのです。
 そして、キリストは陰府に下ります。地獄や陰府、あるいは天国といったものがあるのかどうか。死んだことがないのでわかりません。こういったものも、 生きている人たちのためのものであることがわかります。死んだらどうなるんだろうかと考えた人々が、もしかしたら、死んだらとても寂しいところへ行かなければならない のではないだろうかと思い至ります。そうした人たちの考えが陰府や地獄などを生み出しました。イエスも、その陰府に行ったというのです。陰府の意味するところは、 まさに生きている人たちの思い浮かべる死に対するマイナスのイメージの象徴と言えるでしょう。
 マルチン・ルターは、イエスが陰府に下った後、そこからすべての人を救い上げて天に昇っていく様子を絵に描きました。陰府はイエスに破壊されてなくなったと彼は考えたのです。 少し難しく言えば、人々の心に重く圧し掛かっていた死のマイナスのイメージを払拭したということです。限りなくプラスの力を持つ者が、陰府にあるマイナスの力を 打ち消してしまったとでも言えばいいでしょうか。だから、もう死ぬことは怖くないのだ。死ねば、陰府に行くはずだったけれど、それはもうない。代わりにイエスが天に招いてくださる。 それが、イエスが陰府に下って、甦った」という告白に込められている思いです。
 墓が空であるということは、即ち、人生の終着点とされてきた死が、その抗ぎようがないと思われてきた大きな力が空しいものとされた、ということです。 もう、墓は人を覆い尽くす恐怖の対象ではないということです。そして、それがむしろ希望の象徴となるのは、墓から消えたイエスの遺体がその後どのようになったのか ということによるのです。イエスはどこへ行ったのでしょうか。聖書には、復活のイエスと出会った人たちの体験談が載せられています。共通しているのは、 イエスの思い出を語る人々、共にパンを分け合う人たちがイエスに出会うということなのではないでしょうか。復活のイエスは、そういう人たちと共にいるのです。
 死んだイエスが生き返ったというのが、どういうことなのか。はっきりとしたことはわかりません。しかし「死によって人のすべてが終わりになってしまう」 のではないということは、聖書から強いメッセージとして感じます。それは、イエスに限ったことだけではなく、わたしたちも同じ事であろうと思います。私たちもまた、 死んで終わりではありません。亡くなった方の思い出を語り合う時、私たちはその生前の信仰が神さまを証していると感じる時が確かにあります。その方を通して、 信仰の輝きの故に、その方の傍らに確かにイエスを見るのです。亡くなったその方が、墓にいるのではなく、イエスと共に私たちと食卓を共に囲んでいることを確かに感じるのです。
 先日、ある兄弟を訪ね、病床聖餐式を行ってきました。その時に、私がいつもの式文に付け加えたのは、「この食卓は時間と空間を越えて、すべての主の食卓とつながっている」 ということです。今から私たちが囲む主の食卓は、多くの主の食卓とつながっています。あの時、愛するあの人と共にした食卓、やがて私たちの愛する人たちが囲むであるう食卓、 あらゆる食卓がここに重なっています。そう信じる時、私たちは死を越えてつながっていけるのではないでしょうか。イエス・キリストは、そのようにして私たちをこの食卓に招き、 私たちを一つにしてくださるのです。
 最後に、私は礼拝の中で一つこだわっていることがあるます。それは祝祷です。それ自体ではなく、祝祷の後のことです。私は祝祷の後、その場からいなくなることにしています。 イエスの墓は空であった。そこに復活の大切なメッセージがあると。私は思っています。私が立ち退くことで、祈りの後のオルガンを聞いて、皆さんが目を上げた時、 そこには誰もいなくなります。ここに空の墓のメッセージが込められます。「信仰とは見えない事柄を確信することです。」と聖書にあります。この何もない、 誰もいない空間にキリストを見出せる。それがキリスト者の信仰です。聖書の言葉も、祝祷の言葉も、この空間から消えます。常に聖書を目の前にぶら下げながら暮らすことはできません。 牧師が四六時中くっついて祈り続けることもできません。だから、みなさんは何もないところにこそ、キリストを、希望を見出していく信仰をさらに篤くしてほしいと思うのです。
 イエスの墓は空でした。私たちも墓で終わりではない、死を超えて続く命を信じて、主の食卓に与りたいと思います。


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