戻る

あなた方に平和があるように  2016年4月3日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 喜びの知らせは、いつの時代においても、全ての人々にとっての喜びとはならないものです。特に、既得権益者にとって、本質への立ち帰りと帰還は、百害あって一利なし。それゆえ、エジプトから脱出する際、人々はモーセの言葉を聞き入れず、神に対して不平を述べました。そして、40年間の旅路でも、エジプトに戻ろうとさえ考えたのでした。 また、イエスの誕生も全ての人にとって喜びの知らせとはなりませんでした。救い主誕生の知らせがもたらされると、人々は不安に駆られました。だから、ヘロデは幼子の殺害を計画し、実行したのです。
 それらと同じように、イエス復活の知らせがもたらされた時、それは弟子たちにとって喜びとはなりませんでした。その知らせは、戸惑いと疑いを呼び起こします。
 イエスを信じてきた弟子たちにとって、十字架の死は絶望のどん底でした。彼らはおよそ3年間、イエスと共に過ごしたのです。イエスのことを知れば知るほど、この方こそ救い主だ、社会の変革者だとの確信を得ていました。イエスのためなら死んでも良いという言葉は、決して誇張ではなかったはずです。それほどの思いをもって、弟子たちはイエスと共に生きてきました。ですが、そのイエスが捕らえられ、犯罪人として最も惨めな方法で十字架にかけられ、殺されてしまったのです。その喪失感たるや、想像を絶します。
 加えて、ユダヤ人たちの迫害もその不安に拍車をかけます。反逆者イエスの仲間であるがゆえに、自分たちも捕まって殺されるのではないかという恐れの中に弟子たちは置かれています。だからこそしっかりと鍵をかけて、身を寄せ合うように家の中に閉じこもっていました。
 そればかりではありません。弟子たちには、イエスを裏切り、見捨ててしまったことへの後ろめたさや後悔の思いがありました。それは心の傷となり、心を締め付けていたことでしょう。確かに、彼らは聞きました。マグダラのマリアが復活のイエスに出会ったと。しかし、まだ我々の前には現れておられない。イエスが本当に甦られたのだとすれば、なぜ。やはりそれは我々の裏切りを赦されないからではないか。いや、もし会いに来られたら、どのような顔をすれば良いのか。自分たちを愛し抜いてくださったイエスを裏切ってしまった罪を、どのように償えば良いのか。
 喪失感、恐怖感、罪悪感にがんじがらめにされ、どうすることもできない状況で、固く閉ざした扉と同じように、弟子たちの心は固く閉ざされていました。
 そのように、身も心も閉ざしてしまった弟子たちのところに、イエスが来られます。しかも、完全に閉ざしているはずの部屋の真ん中に。そして、イエスは弟子たちに言われるのです。
 「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書20:19) この言葉は、当時としては至極一般的な挨拶の言葉でした。ギリシア語では「エイレーネーヒューミーン」。「平和(平安)」「あなたがたに」という二つの単語が並べられているだけです。新共同訳聖書では「あなたがたに平和があるように」と願望のように訳していますが、「平和(平安)はあなたがたにある」と訳すこともできる言葉です。
 イエスは、恐れに満ちた弟子たちの真ん中に立たれ、「平安があなたがたにある」と言われました。イエスは決して、弟子たちを叱りに来られたのでも、裁きに来られたのでもありません。
 「あなたがたに平和があるように。」この言葉の中には、弟子たちに裏切られたことに対する恨みや怒りはありません。むしろ、恐れと痛みの中にある弟子たちを解放しようとする言葉、「あなたたちは大丈夫だ」という言葉、弟子たちの抱える喪失感、恐怖感、罪悪感を全て解き放つ、慰めに満ちた言葉でした。鍵がかけられ、固く閉ざされた家と同じ様に、固く閉ざされた弟子たちの心の真ん中にイエスは立たれます。そして、その閉ざされた心を内側から開いてくださるのです。
 「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」(ヨハネによる福音書20:21) 復活のイエスは何度も、何度も、弟子たちのところに現れます。怖じ気づき、戸惑う弟子たちにとって、主が復活されたという出来事を受け止めることは、長い時間を必要としました。そのような弟子たちを力づけたい。ただそれだけのために復活の主は何度も弟子たちのところに現れます。そして、その度に、何度も、何度も「あなたがたに平和があるように」と呼びかけてくださるのです。そして、その背中を押されます。「わたしもあなたがたを遣わす」と。
 それは、そこに留まる事無く、新しい一歩を踏み出せ、という強い願いです。イエスが共にいてくださるという安心感に安住してしまうのではなく、広がる世界へと踏み出していく勇気を持ちなさい。あなたの傍らにはいつも「平和(平安)」がある。だから、安心して行きなさいとイエスは言われます。
 「あなたがたに平和があるように」と私たちも呼びかけられています。安心のうちに明日へと一歩を踏み出しましょう。


戻る