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「力を合わせて働く」2015年8月7日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 コリントの教会は比較的若い教会でした。その教会において分裂の危機が訪れていました。集う人たちはパウロ党やケファ党、アポロ党、キリスト党などと自称して、自分たちのグループを強化しようとしていました。パウロがコリントの町を去った後、実際に、ケファ(ペトロ)もコリントの教会を訪れていたようです。
 人が集まると、どうしても実力者のもとに徒党を組むのが人間の現実ではないでしょうか。キリストを頭として集っているはずの教会が、いつしか特定の人物を崇拝するようになってしまいます。神の平和を実現するはずの教会が分裂を生み出し、本来の目的を見失ってしまいます。
 ここでは、パウロとアポロについて、が問題となっています。「パウロにつく」「アポロにつく」と人々が言うのは、信仰上の違いばかりではなく、むしろ、それを越えて、指導者との相性の問題もあったのではないでしょうか。指導者の文化的背景によって醸し出される雰囲気が自分に合っていると感じるので、一方を支持するのでしょう。
 そのような人々に向かってパウロは語りかけます。
 「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」(コリントの信徒への手紙一3:5)
  私たちに与えられた賜物は、人と比較するべきものではありません。どうしたら、他の人々と有機的に、最も良い働きができるか、それを考えるのです。もし私たちに何かできることがあるならば、それは誰かの弱さを担うためです。もし私たちにできないことがあるならば、そこに神の御業が働くためです。私たちに与えられている賜物は、私たちが利益を得るためだけにあるわけではないのです。
 「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(コリントの信徒への手紙一3:9)
 大切なのは「誰がやったのか」「誰の手柄なのか」ではありません。パウロもアポロも、そして私たち一人一人も、神のために力を合わせて働く者なのです。
 とはいえ、パウロやアポロは十分に「活躍」したではないか、と思う人もあるでしょう。誰もがパウロやアポロのように「活躍」できるわけではない、と。その指摘は正しい。同じ時代、名も残っていない伝道者たちがたくさんいたはずです。働くことさえできないと嘆く者もいたでしょう。
 昨年、政府は「一億総活躍社会」というスローガンを掲げました。この言葉が示すものは、「全ての国民が活躍する社会」である一方で、「活躍できない人間が居場所を失う社会」でもあります。
 本来、社会とは、異質な人々が、その異質さを互いに容認し、補完しながら、全体としてひとつのネットワークを形成していくものです。その意味で、社会の中には、活躍できない人間が必ず含まれています。そして、同じ一人の人間の人生の中でも、生老病死ということがある限り、思うように活躍できない時期は、必ず訪れるのです。
 批評家の若松英輔は昨年10月、Twitter上で次のように発言しています。
 「『「活躍」などしなくてよい。』人はただ、生きているだけで十分に貴いからだ。『活躍社会』は、人生の困難に直面する者たちの声を封じ込め、そして、その叫びをなかったことにするだろう。人は『活躍』するために生まれてきたのではない。『活躍』とは、誰かに基準を定められるべきものでも決してない」。
 「何かが出来るからあなたは素晴らしい」という褒め言葉は、「何かができる人」にとっては確かに褒め言葉ですが、同時に「何かが出来なければあなたは素晴らしくない」というメッセージを伝えてしまいます。神の前にある私たち一人一人は、「何も出来なかったとしても、あなたはあなただから素晴らしい」「そこに存在しているだけで美しい」。それが最高の褒め言葉であるにもかかわらず、光は影を生み出し、傷つく人が大勢います。
 そのような、私たちが理想とする社会とは真逆の方向へと向かっているように感じる現在。神の平和とはほど遠く思える現在。その中にあって、「とかくこの世は住みにくい」と逃げ出すのではなく、何とか「くつろげる」場所を作りたい、何とか平和を実現したいと願います。
 そのためには、私たち一人一人が、一人一人に与えられた分を精一杯果たしていくしかありません。「何か」ができることが素晴らしいのではなく、ただそこにあなたがあなたとして存在することが素晴らしいということを伝えていくしかありません。そして、一人一人がその言葉通り、そこに存在するだけで美しいということをその存在をもって証ししていくのです。
 一人一人がそのように力を合わせて働くところ、働き続けていくところに、平和が実現していくのでしょう。


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