メッセージ


  「闇の中の光」  2014イブ燭火讃美礼拝説教 井上創牧師

 今夜はクリスマスイブです。キリスト降誕の前夜の祝いの礼拝を共にしています。イエスの生まれたユダヤでは日没に日付が変更されるので、 もうこのくらいの時間帯には生まれていたかもしれません。
 キリストの誕生が正確にいつであったのかはわかっていません。現在の12月25日というのは、初期教会における誕生物語がヨーロッパにおける冬至のお祭りと融合していったからだというのが有力な説です。 冬至は夜が一番長い日です。その分、闇が深く濃い一日だと言えるでしょう。そして、この日から少しずつ昼間が長くなり、光の力が増してきます。 クリスマスはまさに闇に射す光の物語なのです。それでは、この闇とは何なのでしょうか。
 イエスが生まれた時代は、今にも戦争が起こりそうな不穏な空気の中で、人が人を裁き、嫌がらせや差別が横行していました。それだけでなく、宗教と政治という二つの力による強い支配体制の元で、税金 など様々な形で搾取が行われていました。そういった一つ一つの悩みや憂いが積み重なって、世界全体を嫌な雰囲気が包んでいたのです。打開策が見いだせないような閉寒感で一杯でした。 これはもしかしたら、今私たちが生きている時代とも重なるのではないでしょうか。深い闇が、いつも人間の世界には満ちていました。イエスは特定の時代の人たちのために生まれたわけではないのです。 あらゆる時代、あらゆる地域で、同じように痛んでいるすべての人間に救いをもたらすためにこの世界に来てくださったのです。
 イエスは夜に生まれました。まるで、人目をはばかるように。それは、命の危険があったからです。時の権力者であるヘロデ大王は、占星術の学者たちを利用してイエスを探し出して殺そうとしていました。 イエスがユダヤ人の王として生まれると預言されていることがわかったからです。今の自分の地位を脅かす者が誕生する。ヘロデ大王は、今まで通りの日常が壊されることを恐れたのです。 イエスは両親に連れられてエジプトへと逃げました。しかし、イエスの行方がわからないとなると、小さな子供たちの命を奪うという暴挙にでました。 小さな自分の居場所を守りたいと思うあまりに、多くの人を苦しめたのです。
 今宵、省みてみたいと思います。私たちも一人のヘロデではなかったかと。今の自分の生活が変わることを恐れてはいないかということを。今、自分はどん底にあると感じている人にとって、 この世界は変わってほしいものです。何とか自分の置かれている状態が変わってほしいと願っているはずです。私たちは自分の生活を大事にするあまり、そういう人たちの苦しみに無関心になって しまっていないでしょうか。この世界に、特に変わってもらう必要性を感じていない。むしろ変わらないことを望んでいるのであるとすれば、それは低められている人たちから目を背ける ということにつながっているのではないでしょうか。イエスは闇に光を当てるために来ました。暗い隅っこで蹲って、泣いている人に寄り添うためです。その人たちを取り巻く世界を変えるためです。 泣く人の涙を拭うため、それが実際に可能なのだということを示すため。世界は変えられるのだというメッセージを、あなたに届けるために来たのです。
 「泣いている人がいたって関係ない。」「私が楽しければいい。」何かを変えられると信じて動き、本当に変えてきたイエスの存在は、現状維持を望む人には都合が悪いものでした。 「どうせ、私が動いても何も変わらない。」「それなら、やるだけ無駄だ。」現状が変わらないことを誰かのせいにして、努力を怠ってきた人たちにとっても、 イエスの存在は眩しすぎるものでした。このイエスの存在は私たちに選択を突き付けます。ヘロデ大王のように排除するか。あるいは、受け入れて自分を変えるのか。 もし、自分を変えようと願うのであれば、イエスは必ずその背を押してくださいます。
 昔も今もある閉寒感。「何も変わらない」という締め。それが、時代を包んでいる闇の正体です。光とはそこに射し込む希望。決して締めないということ。現状は変えられるという確信です。 旧約聖書を読むと、何度も打倒された聖書の民の歴史が見えてきます。国を奪われ、家族や友人も散り散りになり、いつまでも他国の支配が続きます。 しかしこの夜の出来事によって、人々の闇には、「何かが変わるのではないか」という微かな期待が生まれました。イエスの教えや行いが人々の知るところとなるにつれて、冬至を過ぎて少しずつ 日が長くなるように、徐々にこの期待は確信へと変わっていきます。闇は必ず明るく照らされるのだ。イエスの誕生はその最初の一筋の光だったのです。私たちもその核心に基づいて、 イエスと共に世界を変えにいきましょう。


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