あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。イザヤ書43章4節

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「強さとは何?」2014年12月7日聖日礼拝 井上創牧師

 マリアという一人の女性のもとに天使が訪れます。このマリアがどのような女性であったのかは不明です。後にいろいろな伝説が付加され、現在に伝わるようなイメージが作り上げられました。 マタイ福音書には「乙女が身ごもって男の子を生むというイザヤ書の教えが載っています。ヘブライ語の「乙女」には若い女性というほどの意味しかなのですが、ギリシヤ語では「処女」という意味も含み ます。イエスは人間の父親によって生まれていないので、アダムが受け継がれてきた人間の特性である原罪とは無関係である。イエスは罪のない人間だからこそ、罪人を教えるのだという教理が、マリアと いう一人の人間をも特別化してしまいました。しかし、マリアを特別視することは神格化の危険性も孕んでいます。聖書は特別な能力を持っている人間が活躍する書物ではありません。 誰ともわからぬ一人の女性、いっそ私たちと同じように日々の憂いの中で暮らしていた人が、ここにもいます。もう一人の私の物語として見ていきたいと思います。
 マリアは自分のことを「身分が低い」と告白しています。これは謙遜なのでしょうか。本当に貧しかったのかもしれません。マタイ福音書の山上の説教。 貧しいものが豊かになっていく恵みのイメージを、マリアも自分の事として歌っているのではないでしょうか。「貧しさ」とは憂いの一つです。他にも、体の痛み、大切な人の死、孤独、 過去に受けた心の傷など、それぞれに私たちも憂いを抱えています。しかし、そのような辛い境遇にある者にこそ目を留めてくださる神さまの姿。 自分の力に頼り、神さまの力を遠ざけてしまっている人たちの姿が歌われてます。
 弱い者が強められる。聖書はそう言いますが、実際私たちの生きる世界はそのような世界ではありません。力ある者が更にその力を増すために弱いものを打ち据えています。 日本の政治は民衆から消費税で毟り取り企業には減税。豊かになるのは一部の人だけです。低くされた者、弱くされた者はどうすればいいのでしょうか。 何か対策を講じて強くなればいいのでしょうか。弱い力を強くすることが解決なのでしょうか。弱者が強者へと入れ替えられていくこと、憂うべき状況が好転していくことが聖書の語る救いなのでしょうか。  単純に上下がひっくり返ることが、キリストのもたらした幸せなことではないのです。マリアのその後の人生を見てみましょう。喜びの子であったイエスはやがて家を出て、 神さまの言葉を伝えるために地方を巡り歩きます。そして、最後には十字架で犯罪者として刑死するのです。このような母親が一般的に言って恵まれていたと言えるかどうかわかりません。 マリアは我が子の死を知っていたのでしょうか。もし、知っていたたとした。自分の身に訪れる目を覆いたくなるような現実を受け止めて、それをも喜びと言える強さはどこから来るのでしょうか。 マリアは結局、弱い立場から権力者になったわけでなければ、飢えた者から富める者になれたのでもないのです
 48節の後半に「今から後、いつの世の人も 私を幸いな者と言うでしょう」とあります。後に、ルカ福音書11章27節からの箇所で、イエスに語りかける女性が「なんという幸い あなたを宿した胎は」 と告白しています。この女性は、イエスという奇跡を起こすほどの偉大な預言者を生み出したことは母親の誇りだろうと思ったのでしょう。子どもを産むということ、子どもが優れた才能を発揮することは 親の幸せなのかもしれません。しかし、この息子は悲惨な死を迎えます。子どもを産むということは悲壮な覚悟も必要です。何故なら、子どもの痛みは親の痛みでもあるからです。それは、引き受けざるを得 ない運命のようなものです。生んだ後にどうそれと向かい合うかが問われてきます。マリアは、イエスを産んだから祝福されたのではないのです。子が偉業を成し遂げたから幸福なのではないのです。
 ルカ11章でイエスは女性の告白に反論して、「むしろ、幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人」であると言います。マリアは神さまの言葉を信じ切ったのです。不思議な力によって子どもを産むこと になる恐れや、子どもの運命を受け止めて、では、どの言葉を信じたのでしょうか。告知のシーン、ルカ1章28節、「主があなたと共におられる」。人間の力と理解を超えた出来事がこの身に起こるのです。 「お言葉どおりこの身に・・・」などと、自分であったなら言えるだろうかと思ってしまいます。しかし、この到底為し得ぬ決断もひとえに「神さまが共にいてくださる」と信じたからこそのものなのです。 自分に与えられているものがどのようなものであれ、必ず乗り越えていくことができる。自分の大切な人が、子どもがどのような運命に置かれているとしても受け止めていける。「神共に」この言葉に励ま され支えられて、やがて来る大きな傷みを前にしても主を賛美することができる。これがマリアに与えられた本当の強さだったのではないでしょうか。
 目の前の課題が解決していくことではない。たとえ、そのままであっても、「主がいると信じる。どのようなときでも喜んでいることがでいる。これこそふが、幸せの境地と言えるのかもしれません。 マリアの姿から「待つ」ことの意味を学びたいと思います。「何かが変わるはず」「いいものがもらえるはず」「答えが示されるはず」と期待して待つのではなく、どのような状況・結果であっても、 神さまが共にいてくださるのだから大丈夫だという喜びの内に、主の計画が完成する時を待ち続けたいと思います。


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