メッセージ     戻る


「彼らの上にも降った」2015年6月28日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」(使徒11:15)
 ペトロはこの時、自分自身が「清くない」と考えていた異邦人の上に聖霊が降るのを見ました。それは彼にとって驚きでした。なぜなら、選ばれたのは自分たちだけだと思っていたからです。 イエスと共に過ごした自分たちこそ救われるにふさわしく、後からやってきた人たちはその分け前に与るだけで十分だと思っていたからです。ところが、ペンテコステの日、 自分たちに十分すぎるほど注がれた聖霊が、この日、彼が一段下に見ていた人たちにも同じように降るのを彼は見ました。それは彼の考え方を根底から覆す出来事だったのです。 彼は新しい仲間を得た喜びを携えて、エルサレムへと向かいました。
 しかし、エルサレムに戻ってきたペトロを待っていたのは、新しい仲間が増えたことを共に喜んでくれる仲間ではありませんでした。むしろ、猜疑心に溢れた非難の目が彼を待ち受けていました。
 興味深いことに、この時ペトロに向けられた非難は、直接には「洗礼を授けたこと」そのものではありません。非難は「異邦人と一緒に食事をした」ことに向けられました。より一歩踏み込めば、 「異邦人と交わりを持った」ことが非難されたのです。エルサレム教会の「割礼を受けている」ユダヤ人信徒たちは、何を問題にしたかったのでしょう。ペトロが洗礼を授けたことでしょうか。 それとも、異邦人との交わりを持ったことでしょうか。前者ならば、「異邦人は救われない」というところに問題点を見ていたことになります。一方、後者だとすれば、 「洗礼を受け、救われたことは(嫌々ながら)認めるが、彼らとの交わりは持ちたくない」というところに問題点を見ていたことになります。いずれにせよ人は、 「神と人間との隔たり」を越えて与えられた救いに与りながら、その福音を「自分の中にある隔たり」を越えて伝えることに躊躇してしまいます。そして、 その可能性について想像することさえためらってしまいます。これは悲しい人間の性と言って良いでしょう。
 そして、その上で、この物語の中に「異邦人にも」「異邦人をも」「彼らの上にも」という表現がたくさん見られることに注目しましょう。ここにつけられた助詞「にも」「をも」 に含まれた思いにきちんと向き合いましょう。この言葉が意味するのは、異邦人自身に限界があり、その限界を超えて救いが及んだということではありません。むしろ、 福音を伝える側の、割礼を受けたユダヤ人の中にこそ、その限界があったことを伝えようとしているのです。「神は異邦人をも悔い改めさせ」(使徒11:18)とありますが、これは一人異邦人だけが悔い改めたのではなく、 自らの世界に神の福音を閉じ込めようとしたペトロ自身もまた悔い改めたことを示しています。
 エルサレムでユダヤ人たちを前にしてペトロが伝えたかったことは、自分の保身ではありません。自らが神の前に悔い改めたように、ペトロを非難する人々にもまた悔い改めを迫るものでした。それは、 私たちだけが救われると思っていたが、彼らにも救いが与えられた、という上から目線ではなく、神の前にふさわしくない私でさえ救われたのだから、彼らが救われるのは当然だ、という方向に視点を変えることです。 私たちに聖霊が与えられたのだから、当然、彼らにも聖霊が与えられるのだ、ということ。いや、イエスが小さくされている者、この世で不遇を託(かこ)っている者たちのところへ入って行かれたことを考えれば、 むしろ彼ら「こそ」救われるべき存在であり、「彼らにこそ」聖霊が降ったのだということなのです。
 私たちもまた聖霊を注がれた一人です。そして、教会は神に呼び集められた群れです。その集いにおいて、私に注がれた聖霊が他の人に注がれないはずがありません。内輪で凝り固まってしまうのではなく、 もう一歩踏み出せ、と神は言われています。私たちもまた神の福音を告げ知らせる一人なのだから、と。何度も裏切り、逃げ出し、自分に都合の良い面ばかり見ようとするペトロですら方向転換させられた神は、 私たちをも方向転換させられるのです。聖霊は私たちの上にも降りました。私たちも愛を告げ知らせる方向へ一歩を踏み出しましょう。



メッセージへ戻る

ホームへ戻る