メッセージ


「弱さを見据えて」2014年8月17日聖日礼拝 井上創牧師

 今日の物語には二人の盲人が登場します。マルコの並行箇所では、バルティマイという一人の人物なのですが、マタイはこれを二人の名もない人物に変えて編集しています。 何故なのでしょうか。先週の物語を思い出してみましょう。二人の弟子がイエスの右と左の座、つまりいわゆるこの世的な権力を求めました。一方で、今日の二人の盲人は何を求めていたのでしょうか。 イエスに付き添っている二人の弟子と、イエスに近づくことすらできない二人の盲人。イエスとの会話を経て、両者の立場が入れ替わっていきます。先週の弟子はイエスに怒られた後も、結局 イエスの死の意味をよくわかっていないようでした。一方で、今日の二人はよりイエスに近づいていくことになります。対極的な二者を描くために、マタイは 敢えてマルコの原文を改編したのです。
 この物語に「目」という言葉が二種類使われています。盲人たちが、「目」を開けて欲しい、と願う「目」は、肉眼や視力を表しています。そして、イエスが触れて癒した「目」は、 「心の目」という意味で、これは新約聖書に2回しか出てこない言葉です。イエスの奇跡は、もちろん直接肉体にも作用することでしょう。しかし、ここでは、どちらかと言うと、 「イエスの癒しによって心の目が開かれた」ということ。それまで見えていなかったものが見えるようになった、ということを言わんとしているのです。
 何故見えるようになったのでしょうか。マルコやマタイの9章では、この奇跡は本人たちの「信仰」がきっかけとなっているようです。しかし、今日の箇所には本人たちの「信仰」に関する 記述はありません。ただイエスの憐みのみが語られます。マルチン・ルターは、己の罪深さを誰よりも自覚していた人でした。いくら祈っても、告解しても、罪は重なっていく。彼は「救われている」 と言う確信が欲しかったのです。そして、気が付いたのは、「自分の力では、行いと思いでは救いに至らない」「ただ神に縋ることしかできない」ということでした。信じるという行為が神に 認められて、その対価として救いが授与されるのではありません。人間にはなにもできない。だから神が救ってくれるしかない。全てを委ねることしかできないのだ。これが、彼の見出した信仰 義認論でした。ただ神さまの恵みによってのみ救われる。神さまの憐みによってのみ人は救われる存在となり得るのです。
 さて、理屈はそうであるとして、私たちはいかにしてそこに身を委ねる決心をすることができるでしょうか。委ねた先には何の保証もないのです。二人の盲人が癒されて心の目を開かれたのは」 「憐みによる」と聖書は言います。この時、与えられた憐みとはどのようなものだったのでしょうか。
 日本では「憐れみ」と言うと、上から下へという感覚があるように思えます。情けを掛けられるのは癪だと思えば、憐れまれることは避けるべきこと。「武士は食わねど高楊枝」。 どこか自分を一段上に置くことで人の憐みを遠ざけたいという思いがあるのではないでしょうか。しかし、誰かの世話になるのは恥ずかしいことなのでしょうか。「お互い様」という言葉があるように、 人間は迷惑をかけ合って生きているはずです。一人では生きて生けません。「他人様に迷惑をかけるな」と教えられ育てられた子どもは関係が上手に築けないそうです。
 自分の弱みを曝け出すこと、相手の弱みを受け止めることによって、共感する力が生まれます。「君の悲しみはわからない」「でも、君が悲しんでいることはわかる」「君が悲しいとわたしもまた悲しい」。 これが共感です。二人の盲人は「憐れんでほしい」。誰か今の私たちの境遇に共感してくれ、と叫びます。状況を理解することを求めているのではありません。同じ境遇に陥ってほしいと願っているのでもありません。 自分たちを見て共に悲しんで欲しい。そう求めているのです。
 「憐れみ」「エレイソン」という言葉は、神しか頼るもののない、苦難の中から発する切実な祈りの言葉です。願いを聞いたイエスは深く憐れんで彼らを癒します。イエスは「スプランクニステイス」 という、より深い憐みで彼らを包みます。この言葉は、ハラワタが千切れんばかりに、という相手を深く思いやる気持ちを表します。状況を頭で理解して判断するのではなく、イエスは心で感じて 相手の気持ちを察したのです。「誰か気付いてくれ」「憐れんでくれ」という叫びが届いたのです。気付いてくれた。もう自分は一人ではない。見捨てられたわけではなかった。この安心。この喜びが、 二人の盲人に、この世界に身を委ねようという気持ちを呼び起こさせたのです。
 教会の課題の一つが若い世代への伝道です。人は若い時分、無意識に自分の力を信じて生きています。弱さを見せたくないと思う半面、実際は孤独を抱えている。弱さを受け止めてくれる相手を求めている。 それが、若い時代なのではないでしょうか。こういった若者を受け止めるのは、教会の一つの使命です。教会はこの無意識の孤独を受け止めていく器へと変わらなければなりません。安心して弱さを 曝け出し合える。受け止め合える教会、足りないものを責めない教会へと共に成長していきたいと思います。
 そうして、教会で互いに支え合う温もりを得たいなら、それぞれの現場へとその温もりを運んでいく。こうして、世界が神の愛で満たされていくことが「伝道」なのではないでしょうか。いつでも、 イエスが私たちを深く憐れんでいてくださることを喜びとして感じていたいと思います。


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