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「復活するという希望」2015年7月3日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 松谷信司著『キリスト教のリアル』(ポプラ社)を読みました。そこには、数名の牧師と神父たちの生活の一部が記されていました。どうやら「人間的な一面」を「リアル」と捉えているようです。しかし、「キリスト教のリアル」とはそのような属人的なものなのでしょうか。もっと本質的なものを世に証しすべきではないか。そのように思えました。なぜなら、パウロや他の使徒たち、キリスト教の歴史に連なる先達たちは、「自分たちが受け取ってきたキリスト教のリアル」を証しし続けたからです。
 パウロは総督フェリクスの前で弁明します。フェリクスは「なぜパウロが告発されているのか」を知りたがりました。そこでパウロは答えます。「私は信仰の問題で告発されている」と。そして、信仰を知らないはずの総督の前で、自らの信仰を証しするのです。
 敵対者は騒動を起こした罪でパウロを訴えていましたが、パウロは自ら論争を仕掛けたり、群衆を扇動したりしていないと主張します。さらに、律法に忠実に生きており、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」を抱いていると語ります。
 ただし、パウロは死からの復活をゴールとしているわけではありません。復活し、朽ちない新しい者に変えられ、完全な救いに入れられることを希望しています。私たちの抱く希望というものは、叶わないことの方が多いものですが、イエスを復活させた神に対して抱く希望は、実現が約束されています。ですから、パウロは堂々とその希望を語ることができるのです。
 しかし、これはなかなか簡単に信じることができるものではありません。それは、今も、また昔も変わりません。たとえば、ローマ帝国の弾圧の中で、キリスト教信仰を告白することは困難を伴いました。中には、信仰を捨ててしまう者もいたに違いありません。また、自分勝手に信仰をねじ曲げてしまう者もいたでしょう。しかし、そのような時代にあってなお、信仰は保たれ、今の私たちにまで伝えられてきました。
 また、かつて、私たちの住むこの日本でも、キリスト教信仰が禁じられた時代がありました。キリシタン禁教の時代に、人々は踏み絵を踏まされ、信仰の有無を表明させられました。自身もカトリックの信者だった作家、遠藤周作の小説『沈黙』では、踏み絵を踏んで転んだ、伴天連たちの葛藤が描かれています。信仰が禁じられた時代に、信仰を維持する困難さを想像させます。そのような中、踏み絵を踏まずに殉教した人々がしばしば現れました。彼らは死んでも必ず復活するという希望を胸に、信仰を守る道を選んだのです。その彼らを支えた復活信仰は役人たちに恐れを感じさせ、処刑したキリシタンが甦って報復をしないように、首と胴体を切り離して別々の場所に埋めたとさえいわれます。信じる者も信じない者も、人々は復活をリアルに捉えていたのです。
 科学的思考が中心となった現代に生きる私たちに、「死者の復活」はどの程度、現実的、リアルな対象でしょうか。生物化学の分野ではクローンが作られ、iPS細胞による再生医療の可能性も開かれています。新たなかたちでの永遠の命が始まりかけている、という錯覚を起こしかねない時代です。また、ゲームのように、簡単にリセットできると思っている人たちさえいる時代です。聖書に書かれているような「復活」は信用できないけれど、科学の力で起こせるかもしれない、と期待しているような、そんな時代でもあります。
 このような現代にとって「死者の復活」とはどのような力を持つでしょうか。それは、全てのものは必ず「死」を迎えるという現実に、改めて人々を直面させる力です。科学が発展し、人間の無限の可能性が追求されてはいます。しかし、人間は所詮、限界をもつ存在であり、必ず死を迎えます。人だけではなく動物や自然、神に造られた全てのものには「終わり」の時があります。それも神が定め、復活も神が起こされるのです。その言葉の先におられるのは、独りよがりのイメージや、自分の思い通りになる神ではありません。それは絶対的な他者、こちらからの働きかけとは一切関わりなく働かれる神です。そして、そうでありながらもなお、私たちと関わり続けようとされる神、私たちを愛し続けてくださる神なのです。その神の言葉として言葉を受けとった時、その言葉は大きな力を持って私たちに迫ってきます。神の力を感じることができるでしょう。
 カトリックの葬儀典礼に「復活の希望をもって眠りについたわたしたち兄弟姉妹すべての死者を心に留め、あなたの光のなかに受け入れてください」という唱文があります。日本語としてこなれているとは思えませんが、とても人間的な暖かみに満ちた唱文です。この唱文から伝わってくるのは、「復活とは、希望なのだ」ということです。いつ、どういうかたちで甦る、などという時間軸や物質の質量で予測するのではありません。「希望」という、人間に与えられたもっとも美しい感情で死者を包み込み、飾り付け、そしてまた自分の人生をも良いものとして受けとるのです。その希望を保証するのが、信仰です。希望と信仰は、神の光の中を循環しています。その光に、自分を含む全ての死者を委ねるのが葬儀であり、信仰なのです。
 パウロにとって「キリスト教のリアル」とは「復活の希望」でした。では、私たちにとっての「キリスト教のリアル」は何でしょう。私たちを生かしているものは何でしょう。私たちを支えているものは何でしょう。パウロが自分を支えている神についてはっきり語ったように、私たちも自らを生かす信仰について語っていきましょう。


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