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    「キリストの十字架」2015年9月6日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 テレビ番組欄を見ていると「日本人の誇り」ということを強調している題名が多いことに気づかされます。「誇りを持つ」ということに疑問は感じません。 ただ、違和感を覚えるのは、「日本人」というグループに属していることによってしか「誇り」を得られないのか、ということです。もちろん、自らのなしてきた事柄に 「誇り」を感じることは決して悪いことではないでしょう。それはたとえば戦争からの復興、大きな災害からの復興を目指す人々にとって大きなエネルギーとなったことは確かな事実です。
 では、聖書ではこの「誇り」についてどのように述べているのでしょうか。新約聖書ではこの「誇り」「誇る」という言葉が60回使われています。そして、その内の53回は、 パウロ書簡に出てくるのです。
 「あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(ガラテヤの信徒への手紙6・13)。この文章の背景には民族的誇りがあります。 割礼は体の一部に傷をつけることです。その割礼を受けた者だけがイスラエルに連なることができます。そして、彼らにだけ神の救済史上特別な地位を与えられてきたことが、 このような姿勢を生み出しました。
 ここで、パウロが問題にしている「誇り」には否定的で非難されるべきものと、肯定的で根源的なものがあります。非難されるべき誇りとは、 他者・他のグループよりも自分たちの方が優っている、という比較によって得られるもの。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、 その人は自分自身を欺いています」(ガラテヤの信徒への手紙6・3)。そのようなものは「誇り」などではない、というのがパウロの思いでした。
 ところで、「誇り」と聞くとすぐに英語の「pride」を思い浮かべるかもしれません。しかし、ここで用いられている「誇り」とは、単なる「自尊心」とか 「自慢」という次元のことではありません。「何かを誇る」ということは、その「何か」を「生きる拠り所にする」ということです。そして、 パウロの理解によれば、民族的誇りは真の意味で生きる拠り所にはなりません。それは、キリストへの信仰以前の人間が捕らわれている人間的思いであり、 キリストへの信仰によって克服されるべき性格のものでした。
 だからパウロは、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」 (ガラテヤの信徒への手紙6・14)と語るのです。ここでパウロが言うキリストの十字架の誇り、弱さの誇りとは、自分には根拠がなく、ただ神によって、 その愛ゆえに与えられるものです。そしてそれこそが、人間の生の拠り所とすべきものであり、人間の存在の基盤なのです。それゆえに、 パウロは自分のうちにある所属、熱心さ、努力によって得ることのできた「誇り」を「塵芥」とみなしています。 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、 今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピの信徒への手紙3・7~8)。
 主に従う人々の条件として、イエスは「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、 これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・26~27)と言われました。 それは、私たちの生の拠り所であるイエス・キリスト、神から与えられた義に集中するために、他の一切ではなくただキリストの十字架を思え、というお勧めです。 また、その真の福音に出会った時、私たちは否定的な「誇り」から解放されるのです。
 キリストが十字架につけられたのは、人を神との正しい関係に入れ、人に自由を与えるためでした。それも、キリストの愛によって人間が新たに創造されるために、 キリストは十字架につけられたのです。
 「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤの信徒への手紙6・15)。
 原文に沿って訳すなら、「割礼も何ものでもなく、無割礼も何ものでもない。ただ新しい創造のみ」。
 「割礼」はユダヤ民族を象徴し、無割礼は異邦人を象徴しています。ここでパウロが言いたかったのは、ユダヤ人や異邦人といった民族的区別は、 旧来の世界の秩序に属しているのだ、ということ。そのような区別は、キリストの十字架の出来事に働いている、神の新しい創造の業によって本質的な意味を失ったのだ、 ということ。そして、キリストを信じて洗礼を受けた者たちが、民族的相違や、性別の違い、社会的身分の違いを超えて、キリストにあって一つである、ということです。
 その、私たちを一つに結びつけるものこそ、キリストの十字架です。世にあっては悲惨の象徴でしかないキリストの十字架を、生の拠り所とすることによってこそ、 私たちは一つとなることができます。そして、私たちの人生はより豊かな方向へと導かれていきます。今こそ、キリストの十字架を誇る時。 私たちを生かす拠り所であると声高らかに宣言しようではありませんか。


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