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勇気を出しなさい  2016年5月1日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 「がんばれ」という言葉に対する違和感があります。精一杯がんばっているのに、「もっとがんばらなくてはならない」と、無理矢理走らされるような感覚です。しかし同時に、背中を力強く押されているように思える時もあるから不思議なものです。
 励ましの言葉を語る時、聞く時、それぞれの置かれた状況、立場で受け取られ方、受け取り方が変わります。調子の良い時はどんな言葉でも気持ちよく受け止められるでしょう。その逆もまた真なり。なんと自分勝手なことでしょうか。自分の求めている時、欲しい時に、欲しい言葉だけを求めています
 そんな人々に何を語りかけるのか。人は「自分に都合の良い言葉」だけを欲しがっています。その要求、欲求に応えることが正解なのでしょうか。
 イエスの言葉は、ヨハネによる福音書13章からここ16章まで続いています。弟子たちとて一人一人、別個の人格。同じ言葉を語りかけられたとしても、全く同じように聞いたわけではないでしょう。それは私たちと同様です。どれほどの思いで受け止めたのか。それぞれ熱量も違ったはずです。先頭を切っていこうという者もいれば、後からついて行きたいという者もいたはずです。
 10人いて10人に響く、10人を納得させる言葉などあるのでしょうか。たくさん話す中で、ある者にはある言葉が、別のある者には別のある言葉が響いたのではないでしょうか。そして、その最後に、イエスはこう語りかけます。「しかし、勇気を出しなさい」(ヨハネによる福音書16:33)と。
 どの言葉を大切に受け止め、どの言葉にすがって生きるのも、あなたたちの自由だ。しかし、どの言葉と共にあったとしても、あなたたちは大丈夫だ。なぜなら「父御自身が、あなたがたを愛しておられる」(ヨハネによる福音書16:27)のだから。
 「しかし、勇気を出しなさい」。この言葉は、他の福音書では、湖を歩くイエスを見て、恐れ怖じ気づき戸惑う弟子たちへの言葉として語られています(マタイによる福音書14:27「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」、マルコによる福音書6:50「しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」)。また、大声を出して黙らない盲人への言葉としても用いられています(マルコによる福音書10:49「人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』」)。それらの箇所では、「安心しなさい」と訳されています。安心と勇気とは、同じ言葉なのです。安心することで勇気を得るのか。それとも、勇気を出すことで安心を得るのか。いずれにせよ、苦難がある中で、恐れるだろう、落ち着いてなどいられないだろう、「けれども、安心しなさい、勇気を出しなさい」と語りかけられるのです。
 イエスを信じることによって私たちは、一挙に、苦しみや悲しみのない天国に移されるのではありません。イエスの弟子たちは、なおこの世に生きています。悲しみや苦しみ、不安、偽り、そのほか闇の世の力の渦巻く世界に生きています。そこで弟子たちは、なお多くの悩み、苦しみの中にあって苦闘するでしょう。ここで言われている「苦難」とはただ肉体的なものだけではありません。外からの迫害だけを意味しているのでもありません。精神的な痛み、内側からの痛みをも内包するものです。
 この世において、私たちはなお多くの悩みの中にあります。苦難にさいなまされています。残念ながら、この世は未だ天国ではありません。神の国はその完成へと向かって進んではいるのですが、未だその時には至っていません。多くの苦しみがあり、悲しみがあります。
 しかし、この悩みの多い世にあっても、すでに私たちは主イエスを知っています。イエスは私たちのために苦しまれ、十字架につけられ、死なれました。そのイエスが、復活を通して、神の愛を教えてくださいました。そして、復活のイエスが今もなお生きて、世に勝った主として私たちと共に歩んでくださることを知っているのです。私たちの苦しみは、なくなってしまうことはないでしょう。しかし、その苦しみは軽くされ、意味のある苦しみとなり、希望のある苦しみとなっていくはずです。
 そこにおいて私たちは、この苦しみや悲しみに満ちた世の歩みが、決して無意味なものではなく、絶望でもないことを知るでしょう。そこから生きる喜びが与えられ、希望が生まれていきます。今日を希望をもって生きる勇気が与えられるのです。
 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 「安心して、勇気をもって新しい一歩を踏み出しましょう。


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