メッセージ


「何回赦そうか」マタイによる福音書18章21~35節  井上創牧師

 武蔵野扶桑教会は創立56周年を迎えました。教会の始まりは弓町本郷教会から派生した聖書研究会でした。 弓町本郷教会は組合派と呼ばれている教派的背景を持っています。組合派教会の特徴の一つは自由主義神学であると言えるでしょう。 この「自由」とは、聖書を自由に読むということを意味しています。たとえば、創世記の人間創造物語は二つあります。 出エジプト記と申命記の十戒の文章には違いがあります。イエスの系図も福音書によって違いがあります。これらの矛盾したものをそのまま信じることは不可能であるという熱心な 信仰に基づいて、様々な近代的な研究が行われました。こういった研究の成果を加味しつつ自由に解釈をしていくのが自由主義神学のスタイルです。
 今日の箇所でもイエスは「7の70倍赦せ」と言っていますが、たとえ話の主人は一回しか許していません。これは矛盾しているといえるでしょう。 そもそも天の国の鍵(誰かを赦したり、裁いたりする権利)は教会が管理し、自由に開け閉めができると言われていました。赦さない選択肢もあるのであれば、 「赦せ」と言うイエスの教えをどのように受け止めればいいのか私たちは迷ってしまいます。こういった矛盾を解決する方法の一つが、いろいろな資料・伝承が入り混じって物語が構成されているとする考え方です。 聖書はただ書かれていることを信じようとするのではなく、何を言わんとしているのか解釈していくことが必要なのです。自由とはそれが一人ひとりに任されているということです。大切なのは祈りを持って御言葉に向かい合うこと。 「神」が「私」に何を語りかけているのか。私たちの教会は、そういう問いかけ、そういう礼拝を続けてきたのではなかったでしょうか。
 赦すとは、「相手の負い目を勘弁してやる」ことではありません。上から目線で「赦してやる」と言うものではないのです。さらには、「このことを容赦してやったのだからあのことを容赦しろ」 と言われても、それとこれとは別の話で第三者に強制されることではないという気持ちになってしまうのも無理ないことだろうと思います。 私たちは、赦されることを通して愛されていることを実感できなければ本当の意味で許されているとは受け止められないのではないでしょうか。
 愛とは「何をしたから愛だ」とは言えるようなものではありません。人によって受け取り方が違うからです。一時期、熟年離婚と言う言葉が流行しました。 夫:「長年家族のために働いたのに」、妻:「私たちをずっと放ったらかしで仕事、仕事だったくせに」。あるいは、親の心子知らずという言葉もあります。 親:「お前のためを思って言ってにいるのに」、子:「私のことなんて何もわかっていない」。カトリックの晴佐久司祭は「愛と通じ合うことで流れるエネルギー」 と言っています。相手に届かなければ愛ではない、それは単なる自己満足だということなのでしょう。私たちが他者を赦すものになるためには、まず心と心をつなげること。 関係を回復して間に愛を流れさせた赦しが必要なのです。
 罪とは神様を省みないことです。「神などいない」「神など知らない」と言って断絶してしまった関係を罪と呼ぶのです。人と人の間にある罪も同じです。誤解と自己中心による関係の断絶、 心が通じ合わない愛のない関係が罪です。誰かが誰かに対して罪を犯すのではないのです。関係の破たんが生まれた時、それが罪の状態なのです。イエスは 「7の70倍赦せ」と言います。7は聖書では完全数。つまりこれは、無限に許せということでしょうか。私たちはどんなことをされても赦し続けるように言われているのでしょうか。 そうではありません。求められているのは本当の赦しです。もう罪を犯さない、関係の回復、愛を流し合うことが求められているのです。赦すということは回数の問題ではないのです。 誤解を解き繋がり合うときに、私たちは本当に赦し合えるのです。
 神などいないのではないか。神さまはこの世界を大切に思っていないのではないかという疑いに私たちは簡単に囚われます。天災、不条理な事故、人と人が 憎しみ合う現実、死などによって、私たちの内に神様への不信や無理解が生まれていきます。そんな私たちに、「どんなときにもあなたを大切に思っている」、 繋がりたいという神さまの側の強い思いを伝えるために十字架が立てられました。信じる者が赦しを得るためです。思いを受け取って関係を回復することができるようにです。 愛し愛される本来の関係に戻ってほしいという神さまの思い。それを人と人との間にも取り戻して欲しいという思いが今日の聖書箇所で語られてるのではないでしょうか。
 それでも私たちにはどうしても、赦せないことはあります。赦すことの出来ない私たちは神さまに赦されないのでしょうか。終末の裁きの時に何が起こるのか。 全てが明らかにされているわけではありません。しかし、一つだけ確かなのは、イエスが味方であるということです。十字架上で「この者たちをお赦しください」と叫ばれたように、 日々私たちもために祈っていてくださるのです。今日のたとえ話の登場人物を現実の人々に置き換えたなら、王・主君は神さまでしょう。赦せない家来は私。 そして私が赦すべき兄弟姉妹。では、イエスはどこでしょう。イエスはこの。物語にはいないのです。もしいたとしたら、父である主君に家来の助命を懇願してくれていたのではないでしょうか。 私は「自由」を良いことに、そんなことを信じているのです。
 教会に求められているものは、集う民を神とつなげること、そして赦されていることを実感できる礼拝を続けていくことなのではないでしょうか。 教会もまた罪びとの集まりです。交わりの中で人とのつながりに躓きを覚える方々もおられるかもしれません。そういう時でも、いえ、そういう時だからこそ、 神さまとのつながりの回復をまず求めて礼拝に集ってきて欲しいと願っています。共に、赦せる者になれるように、神さまの愛を感じることができるように祈りましょう。


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