メッセージ


2014年4月20日聖日礼拝「共に死に、共に生きる」 井上創牧師


 今年の受難節、私たちは聖書のあちこちに描かれているキリストの十字架の意味を尋ねながら歩みを進めています。 今日のローマの信徒への手紙はパウロ神学の集大成として、多くの難解で深遠なテーマが描かれています。 本来ならば、深く息を吸ってその一つ一つにじっくり潜ってみたいところなのですが、今日はそのテーマの一つである罪と義について、あるいは死と命ということについて、 みなさんと考えてみたいと思います。
 パウロが今日の箇所で言っている「罪」とはこの世的な種々の犯罪の事でありません。神さまから離れてしまうことです。そして、 この罪によって人は死すべき存在となってしまったと彼は言うのです。旧約聖書において罪は律法と関連付けられることが多いのですが、 5章14節にあるように、モーセが律法を授かる以前から人は罪を犯す存在として描かれていますし、死ぬ定めにあります。問題とされているのは私たち一人ひとりが持つ個別の罪の事ではなく、 アダムという最初の一人の罪によって、それが人間全体に及んでいるということです。パウロにとって、この罪の問題は死の問題に置き換えられているようです。罪によって人は死に囚われる者となった。 この罪から解き放たれることが、即ち死を超える復活、新しい命なのです。
 罪とは神から離れる事でした。つまり、神さまを信頼して生きていないなら死んでいるも同然だということです。 この世界で生きている意味が失われる。何のために生きるのか、わからなくなってしまっている。自分のために生きても、何か自分で生きる意味を設定しても、それは死ねば終わりになってしまう儚いものです。 たとえ、愛する人のために生きて、死ぬのだとしても、自分で決めたことなら、それも自分のエゴだと言えるかもしれません。結局、自分の世界を守っているだけですから、死ねば消えてしまいます。 自分で望んでこの世界に生まれてきたわけではない私たちには、この世界で自分に何が望まれているのか、どう生きたらいいのか、生んでくださった方に聞く姿勢がなければならないのではないでしょうか。
 教会はこのために洗礼を勧めています。洗礼とは溺れ死bぬ事です。そして、清められて新しい命で水から上がってきます。ただ死ぬだけ絵はありません。キリストと共に死ぬのです。 十字架の死をこの身に受けるのです。その死を共にしたことによって復活の命も与えられるようになります。死後のことではありません。この世の生においても、です。復活とは、ゾンビのように生き返るということではありません。 キリストと共に新しい命を生きるということ。新しく生きる意味を与えられるということです。洗礼による「死」とは地上の生を終えることではありません。 ただ無意味に生きていくことがパウロの言う罪の結果としての「死」です。そういう自分がキリストの十字架に死んだのです。いや、キリストがそういう私と一緒に死んでくださったのです。 9節にあるように、新しい命を生きる者は死にません。つまり、もう二度と意味を失った人生には戻らないということです。
 では、キリストを信じる者は新しい命をどう使って生きていくのでしょうか。キリスト者としての生き方とはいかなるものか。パウロはこう語ります。13節「死者の中から生き返ったものとして、自分を義のための道具として神に献げなさい」。 自分の思いに呑み込まれて生きるのではなく、神の義を世に表すために生きる。では、神の義とは何でしょうか。それは、キリストに表れています。生きる意味を見失っていた私たちと共に死んでくださり、 神さまに信頼して生きる新しい命をキリストは与えてくださいました。神さまが私たちを受け止め、愛してくださっている。だから、その愛に身を委ねよう。そして、自分も愛する者として生きていこう。 自分の思惑で他者を裁き、批難し、傷つける者として生きるのはもう止めよう。イエスさまはそういう生き方を私たちに教えてくれているのではないでしょうか。そうやって、神の義を世に表す器として、私たちは見出され、 意味を与えられているのではないでしょうか。私たちの創り主なる神さまが、「生きよ」と言っておられます。その声を聞きながら復活の命を生きて行けたらと思います。


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