メッセージ


「あたたがたより先に」 井上創牧師

 今も昔も、葬りというのは大事なものです。イエスの葬りを担ったのは、」アリマタヤのヨセフという人でした。弟子たちは、イエスが捕縛されると逃げ散り、 ついには葬りの際にも現れませんでした。本来の葬りは、個人の遺志を継ぐ者たちによって行われるべきものです。しかし、肝心のペトロたち弟子ではなく、ヨセフという誰も知れない男が、 その役を担ったのです。聖書はただ「神の国を待ち望んでいた」と彼を紹介します。そして、これこそが、主イエス・キリストの意志を継ぐ者の条件のようなものだったのではないでしょうか。 先ほど一緒に唱えました信仰告白。「主イエス・キリストの再臨」によって、まさにこの神の国が完成する時を待ち望むということでもあります。だから、この告白を心より信じて聖餐をする者を、 キリストに従う者、キリスト者と呼ぶのです。さて、それでは、「神の国を待ち望む」「キリストの再臨を待ち望む」とはどういうことなのでしょうか。
 マルコによる福音書は、イエスの墓を訪ねた女性たちが、御使いの言葉を聞いて逃げ去るという8節で唐突に終わります。9節からの部分は、後の人たちによる付け加えであると思われます。 マルコはここで物語を終えるのです。考えられる理由の一つは、先週お話しした、百人隊長の告白です。「本当に、この人は神の子だった」。この告白がなされたのは、イエスの十字架による死の場面です。 本書は「神の子イエス・キリスト」についての物語であると1章1節で話を始めたマルコは、その「神の子」としてのイエスの頂点を復活ではなく十字架に置いたのです。 もちろん、十字架と復活はひとつなぎです。復活が無意味だいうことではありません。「十字架で死んだイエス」が復活した。力点が前にあります。だから、復活したイエスが 何をしたか、それを知った弟子たちがどうなったか、そういうことは取り敢えず置くのです。どこの馬の骨ともわからない人が生き返ったということではないのです。 「十字架で死んだイエス」が復活したから意味があるのです。
 ならば、十字架とは何であったか。それは神の決意です。私たち人間と共にいるという意思の表明です。どれだけ傷つけられても、痛み、苦しみ、悩みを負おうとも、 決してあなたを見捨てないという宣言です。愛した弟子たちからは見捨てられ、侮辱と暴力に晒され、十字架の苦しみの中で死んでいく。それでも、神はあなたを愛している。 それが、十字架上のイエスによって明らかにされている神の御心です。その想いは、しかし振り払われ、私たちの手によって亡き者にされてしまいました。「私のために神が死んだ? だから何だって言うのか。私には関係ない」。そして、終わったのでしょうか。文字通り必死に訴えかけた声はむなしく消えていったのでしょうか。そうではありませんでした。 意志を継ぐ者が現れました。これほどの愛があるのだと、語り継ぐ者達が現れたのです。それが、弟子たちです。イエスが捕えられた時に散り散りになった弟子たち。 その死の時も、葬りの時も、どこかに隠れ姿を見せなかった弟子たち。その弟子たちが、イエスに顕れた神の愛を宣べ伝える者になったのです。彼らを別人のように変えた物は何だったのでしょうか。 それは、婦人たちに託された伝言でした。「あの方は、あなたがたより先にカリラヤへ行かれる。かねて言われていた通り、そこでお目に書かれる」。
 カリラヤは、イエスがその活動を開始し、弟子たちを召し出した場所です。婦人たちからこのことを聞いた弟子たちは、かつての出会いの場面を思い出したのではないでしょうか。 あの時、燃えていた自分の心。「わたしについてきなさい」。そう呼びかけられた時の胸の高まり。イエスに導かれて出発した旅の原点に立ち戻った弟子たち。 ガリラヤで実際にイエスに遭えるかどうかは問題ではないのです。かつて、裏切った。見捨ててしまった。大きな後悔と罪の意識。そのイエスから、「再び会いましょう」と言われたのです。 例え予告されていた通りに復活するのだとしても、責められるかと思った。無視されてしまうかと思った。もう二度と一緒にいることは出来ないのだと思った。無視されてしまうかと思った。 それほどのことをしてしまった。それなのに、赦してくださった。最初に出会ったあの場所でもう一度会いましょうと呼びかけてくださった。こうして、彼らは喜びに満たされて 宣教の業に出かけて行くことになるのです。
 話を最初に戻しますと、私たちはキリストに従う者として、神の国を待ち望むのだということでした。それは、ペトロたちのようにガリラヤへ向けて、招かれ、呼びかけられたあの喜びへと向かっていくことなのではないでしょうか。 愛されていること、赦されているこのの喜びは、私たちの心に何度でも呼び起されます。その度に、私たちは愛される者から、愛する者へ。赦される者から、赦し者へと変えられていくのです。 神の国を待ち望むとは、決して座して待つということではありません。互いに仕え合い、喜びの世界が広がっていく先に神の国があるのです。復活の主が私たちに先立ってくださいます。待ち望み、歩き出しましょう。  


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