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どこにいるのか?  2015年11月1日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 旧約聖書に登場する人物も、新約聖書に登場する人物も、聖書の時代にその足跡を残した偉大とされる信仰深い人も皆、 その命は尽きてしまいました。私たちの教会の先達たちもまた、誰一人「死の刺」に打ち勝った者はいません。
 誰も「死」から逃れられません。そして、自分がそのような者であることは、誰か他の人のせいであったり、環境・社会のせいであったりはしません。 もちろん、自分の意思で抗うことのできない状況におかれているということはあるでしょう。しかし、私たちは誰一人、「死」から逃れることは できないのです。だからこそ、教会の歴史の中で、かけがえのない一人だった信仰の先達を覚えることは、必然的に現状の自分の信仰について深く 考える時間になるでしょう。
 極めて良かった」(創世記1・31)と言われた人間は、神の言葉と全く正反対の言葉を聞きました。それは、「それを食べると、目が開け、 神のように善悪を知るものとなる」(創世記3・4)という蛇の言葉です。一見すると、この蛇の言葉は人間の成長を促すように思えますが、 実はその反対です。とても狡猾に、優しい言葉でコーティングされて、人間に「お前はダメだ」ということを語っています。 「お前は極めて良かったと神に言われたと思っているだろうが、実はお前は目が開いていない。善悪を知らない。完璧ではない。 お前はダメだ」とのメッセージが背後に隠れているのです。
 しかも、「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3・5)果実を食べてしまった人間は、たしかに「目が開けた」のですが、 それで知ったのは、自分たちの「ダメ」さ加減でした。ますます良い存在になるはずが、全く反対のことばかり起こります。「善悪を知る者」 となってしまった人間は、何よりも、自分自身の「悪」を知ることになったのです。
 加えて、「目が開けた」はずの人間には救いが見えません。自分が善ではないことを知ってしまった人間でした。しかし、 そこからの救いは知らないのです。ですから、いたたまれない思いで神のまなざしから逃れようと身を隠してしまったのでしょう。 さらには、そのやりきれなさから他者の悪をあげつらって、自分の正当性を訴えたりもします。
 神と、また隣人との関係は破壊されてしまいました。もはや身の置き所もなくなった人間は、無邪気な楽園の境遇を失ってしまいます。 せっかくの「極めて良かった」という言葉も聞こえなくなり、「お前はダメだ」という責める言葉だけが耳に残ります。
 この、「お前はダメだ」という言葉の最も大きな力こそ「死」です。この力が人間に死をもたらすことになった、と聖書は伝えています。 確かに、この力に支配された人間の弱さもあるかもしれません。しかし、その責任を人間の弱さに背負わせてしまえば、 「お前はダメだ」という言葉の力から目をそらせてしまうことになるでしょう。
 そのような人間、「お前はダメだ」という言葉に支配されている人間に向かって神は問われるのです。「どこにいるのか」(創世記3・9)。 いったいお前は何を見て、何を感じ、何を信じているのか、と。お前が見ているのは「極めて良かった」という神の言葉なのか、 それとも「お前はダメだ」という蛇の言葉、死の力なのか、と問いかけられるのです。
 その問いかけの背後にあるのは人間に対する限りない神の愛です。燃え立つような神の愛です。神は私たち一人一人に深い関心を持っておられます。 だからこそ、愛をもって問われます。愛においてどれだけ豊かであるか、と。たとえ小さな生涯であったとしても、心に神の愛の大きな光を灯し、 ますます輝かせるようにと求めておられるのです。
 私たちが聞くべき神のメッセージは、「『極めて良かった』という神の言葉は変わっていない」ということです。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3・16)
 独り子イエスに対して「これは私の愛する子」と言われた神は、「極めて良かった」という言葉へと私たちが立ち帰ることを期待しておられます。 「お前はダメだ」という力が、死によって私たちを支配している状態から解放されることを願っておられます。今も、そしてとこしえに、 恵みによる永遠の命が私たちを支配していることに目を向けましょう。
 その時私たちは、絶えず「どこにいるのか」と問われる神に応えていくことができます。神の問いかけに、いつも「ここにいるよ」 と応えていきましょう。「極めて良かった」という神の言葉を改めて聞きましょう。神の愛に感謝しましょう。 どんな状況でも変わらず私たちを見つめてくださっている神の思いに押し出されて、今日も一日を豊かに過ごすのです。


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