人間は自分勝手でわがままな存在です。一人で命を支えているようなつもりになっていますが、その人生はその人一人のものではありません。周囲の人々との関係の中に、その人生はあります。すべての者から切り離された人生などあり得ないし、 考えることさえできません。人は一人では生きられないのです。そして、一人で生きられない人間は、自然と集団を造るようになります。自分を受け入れてくれる場所を求めて、誰かと共にいようとします。自分の居場所を求めて、人はこの地上をさまよっています。 その人間の集まりの一つとして教会があります。同じ一人の神を主と仰ぎ、神の思いに従って生きようとする人々の群れが教会です。その意味において、教会とは単なる建物を示す言葉ではありません。 礼拝堂そのものを指すのでもありません。この地上において人々が共に集い、神を賛美する群れこそが教会なのです。 この教会は人間の集まりですがら、当然、そこに集う一人一人の関係があります。残念ながら、そのすべての関係が良いものだとは言えません。生理的に合わないと思うような人もあるかもしれません。 考え方についていけない人もいるでしょう。地上の人間の集まりの縮図が、この教会にもあるということです。その中では、「自分にとって都合の良い」関係だけを築こうとする人も現れてきます。そんな人たちを目の前にした時、私たちはどうすれば良いのかと途方に暮れることさえあります。 そのような地上の群れ、具体的にはイエスの目の前にいる弟子たちに向かって、イエスは語りかけられます。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ)による福音書15:12) 「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネによる福音書15:17) イエスはこの短い行(くだり)の中で、二度、「互いに愛し合いなさい」と繰り返されます。しかも、それは「掟」であり、「命令」なのだと。 命令や掟と聞くと「神の子の自由」とは正反対の事柄のように思えます。ファリサイ派の重視する律法と同じように感じます。規則でがんじがらめにされて、何の自由もない生活を創造させるから,そう思うのでしょう。 確かに、律法にはそのような側面があることも事実です。しかし、その側面から解き放たれたのだ、とパウロは言います。 「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」(ガラテヤの信徒への手紙3:23~24) 自分が苦手なものも愛しなさい。自分が嫌いな者とも愛し合いなさい。そのような、誰かに言われて、「愛さなければならない」と言う命令ではありません。イエスが命令するから仕方なく愛してあげるのだ、 でもありません。それは、人間には非常に難しい道のりです。しかし、イエスはそのことを実践されました。自らを殺そうとする者とも交わりを持たれました。十字架上ではその者たちのために執り成しさえ祈られました。 そのイエスの中にあった思い、それは相手のことを知りたい、相手のことを受け入れたい、と言う興味と関心だったに違いありません。すべてのものが神によって造られた「良い存在」、その神が造られた全てのものに興味と関心を持ってイエスは向き合われたのです。 それゆえ、イエスの命令とは、「すでにその関係の中にあることに気づいてほしい」というイエスの思いに他ならないのです。あなたもまた、神に造られた一人として目の前の存在に興味と関心を持ってほしい、との。 当たり前ですが、「互いに愛し合う」ことは、一人ではできません。一方通行の愛はただの自己満足に過ぎません。互いに相手の立場に立って理解したいとの願い、思いを合わせる時に初めて、「互いに愛し合う」というこの掟、命令が生きてきます。 「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31~32) 私たちは、イエスの言葉に留まるとき,自由な存在とされます。この自由は、自分勝手にやれる、何ものからも自由だという自由ではありません。わたしたちのわがままとは本質的に異なります。聖書の言葉の真理に立ち、ただそれによって生きるときにのみ、他の一切の真理でない ものから自由にされるのです。そして、本当に自由な存在とされたとき、人はその自由を得ると同時に、相手を尊重することができるようになります。イエスが愛された人を愛することができるようになるのです。 しかし、私たちが忘れてはならないのは、教会は正しい人の集まりであると同時に、罪人の集まりでもあるということです。どれほど愛を注いでも、全く反応のない人もいるでしょう。それどころか、こちらの愛をないがしろにするかのように 行動する人もいます。時には、愛することなど無駄だと思うこともあるかもしれません。自分だけが新しくつくりかえられたがばかりに、相手を愛そうとするばかりに損をしていると感じる時もあるかもしれません。 それでもなお、私たちは神の愛を信じています。神の愛が豊かに注がれていることに疑いを抱くことはありません。確かに、今は何の反応もないかもしれない。しかし、いつか必ず、その相手も神の愛に、本当に気づくく日が来る。自分勝手という自由を謳歌するだけでなく、 相手を尊重することができるようになる日が必ず来る。私たちはそのことを信じて今、生きています。 イエスは「互いに愛し合いなさい」と命じられました。二人の内、どちらか一方にだけ命じられているのではなく、私たち全てに向かって、一人一人に向かって「互いに愛し合いなさい」と命じられています。 その瞬間には一方的だった愛が、いつしか双方向的な愛の関係に造り上げられていく日が必ず来ると信じて、「互いに愛し合いなさい」と。 神がら与えられた恵みは、互いに愛し合うことで初めて実を結び目に見えるものとなります。私たちが本当にイエス・キリストの掟、「互いに愛し合いなさい」という掟に生きるならば、たとえどれほど欠け多い 現実であったとしても、そこがキリストの教会であることを、そこに集う一人一人が、またこの世界の全ての人が知るようになります。そして、互いに愛し合う、仕えあうことによって、一人一人を大切にすること、神に造られ、神に愛されるかけがえのない 人間として他人を思いやる、愛することの大切さを広く世に証することができるようになるのです。 まずは教会が、まずは私たちがその姿を実現していくことから全てが始まります。私たちはそのような交わりに招かれているのです。
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