メッセージ


「神さまの拾う石」 2014年10月5日聖日礼拝 井上創牧師

 今日のたとえ話では、聖書の民の歴史をぶどう園で起きた出来事にたとえて、神さまに聞き従う耳を持たない人たちはどうなるのかということが語られています。
 旧約聖書における(旧い)約束とは、イスラエルの民は神さまを大事にする。その代りに神さまから守ってもらう、というものでした。 その「守ってもらう」ことの具体的な現われが、生活の基礎となる土地を与えられるということでした。しかし、その土地に定住した民は神さまとの約束を忘れ、 その言葉に従わなくなっていきます。神さまは預言者を送り、繰り返し約束を思い出して立ち帰るように勧告します。しかし人々は預言者を殺したり 石で打ったりしました。彼らはやがて近隣の大国によって滅ぼされ、土地を奪われてしまいます。その後、再び帰還することもできるのですが、国として独立することはできませんでした。 いつか神さまがまた救ってくださる時が来る、国をもう一度興してくれる救世主を送ってくださる。人々は待ち望んでいました。たとえ話では人々はその救世主である息子をも殺害してしまいます。 「ぶどう園の主人をどうするだろうか。」イエスは問います。農夫たちにたとえられた祭司長やファリサイ派の人々は、自らの口によって、「そいつらをひどい目に遭わせて殺し、 ぶどう園はほかの農夫たちに貸すにちがいない。」と答えます。他の農夫とは、自分の罪を悔い改める人々、異邦人改宗者を表すということは前回のたとえ話からもわかります。
 ところで、農夫たちは何故これほどまでに主人に逆らい、息子を殺してしまったりしたのでしょうか。たとえ話の中でイエスは、それは相続財産を奪うためであったと 語ります。神の持つ財産とは何でしょうか。この地上の全てとも言えるかもしれません。または、神さまのみが持つ特性という風にも考えることもできるでしょう。 人の罪の根源とは、神さまに成り代わり善悪の判断をしようとすることであったことが、創世記の天地創造物語からわかります。人は賢げに世の中の善いことと悪いことを 決めようとします。真実は神のみぞ知るにもかかわらず、例えば、イエスが生きた当時の人々はイエスの殺害を善いことと判断しました。これも、神さまの財産を収奪したことによる結果と言えるでしょう。 私たちも日常において、自らの判断によって神さまの特権を奪ってしまっていることがあるのではないでしょうか。自分を善いものと思い込む時に、他者の悪いところが見えてきます。 やがて、それを責めるようになります。関係の崩壊の始まりです。また、自分が善いと主張する者同士がぶつかり合えば争いが生まれます。 罪の結果は不和と諍いです。逆に、自分を悪いものと思い込むことで、自信の喪失や自我の揺らぎに苛まれている人もいることでしょう。神さまに任せる心を失った結果、 私たちはいつも争いと不安の中に置かれているのです。一刻も早く財産を神さまに返さなくてはいけません。
 42節からも、一つのたとえ話が語られます。詩篇118編からの引用です。家を建てる者とは、神さまの家を建てる霊的な指導者たちや、この世の政治的な指導者たちを表しています。 その人たちの目には不必要に見えた材料が捨て去られます。ここでも、人が勝手に、悪い者と決め込む様子が伺えます。取り除かれた石とは、すなわち十字架に打ち捨てられたイエスのことです。 しかし、神さまはそれを拾い上げました。人間の判断を超える出来事が起きたのです。聖書はこれを「不思議なことである」と言います。予想に反した驚き。 当たり前とは対極の出来事。常識や習慣を超えて起こる神さまの業です。普通・常識・マジョリティーよりも、特殊・異常・マイノリティーこそキリスト教的なものなのです。 世の中から捨て去られた者こそ、神さまに選ばれた者です。いじめられている人は、それを誇りにすることができたらと思うのです。イエスという要石こそが私たちの希望です。 それまで、当たり前に捉われていた古い自分はこの石に砕かれ潰されて新しい自分として生まれ変わらされるのです。
 「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りの櫓を立てる」というきめ細やかなぶどう園の造園作業は、教会の建築作業にも似ています。 このぶどう園は神さまが作った神さまのものでした。では、この教会堂は誰のものでしょうか。5年前に行われた献堂式。献堂式とは、神さまに会堂を捧げる式です。 神さまがこれを建てたという信仰がそこにはあります。教会員が欲したから建てたのではないのです。神さまの計画する大きな宣教の業の流れにに導かれて建てられたのです。 法人化にあたり教団から教会へと財産が返還されました。その結果、法人教会が国の法律上はこの建物と土地の保有者となりました。しかし、法人化しようとしまいと 主の教会として為すべきことは同じです。キリストに倣い、ここに愛の群れを育てること。所有者が教団でも教会でも会堂の役目は同じです。 この地で、主の栄光を顕す器として用いられていくのです。人間も同じです。男も女も、大人も子どもも、教師も信徒も未受洗者も、神さまに拾われた石として 教会の形成のために用いられていくのです。
 米国の代表的なっ聖書学者ウィリアムソンは、この聖書箇所から「教会を私物化するな」というメッセージを語りました。個人が私物化するということだけでなく、 そこに集う人たちも教会を自分たちのものとしてはいけないのだということでしょう。神さまの体である教会の一つとして、私たちは自分の殻に閉じこもらずに、世界の教会の歴史や 現代の他教会の取り組みに学ぶ必要があるのです。私たちの教会は世界の教会から見ればまだ生まれたばかりの子どもです。自分たちは未熟だという意識を大切にしたいと思います。 それはつまり、まだまだのびしろがある、可能性に満ちた明るい未来が待っているということです。自信の無い人ほど、変わりたがらないものです。神さまに信頼して全てを委ねて変えていただきましょう。


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