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「聞くことによって始まる」2015年5月29日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 言葉は、とても不思議です。口から出た一つ一つの言葉は、口を離れた途端に一つのものとなり、意思を離れて一人歩きし始めます。口で語る言葉はまだマシなもの。面と向かって話せば、その意味も意思も通じるのに、書かれた文字となると、ニュアンスを伝えるのに大変な苦労をします。言葉を伝えるというのは大変だ、と改めて思います。
 では、神の言葉はどうでしょう。神の言葉、それは神が私たちに語りかけられた言葉です。空虚な私たちの言葉と違って、本当に力のある神の言葉です。創世記には、神が発せられた言葉によってこの世界があるということが記されている。そして神は、その言葉を通して、私たちと向き合おうとされます。
 しかし今、その神の言葉が、簡単に取り扱われているという現実があります。神から私たちへと語られた言葉は、聖書を通して私たちに伝えられています。神の力ある言葉が、この聖書を通して私たちに語りかけられているのに、私たちはその語りかけに耳を傾けようとしているでしょうか。
 神の言葉が文字として書き留められた時から、その言葉と私たちとの関係は変化し始めました。直接語りかけられた者が生きている内は、神の語りかけとして直接的に捉えられ、その権威は保たれていたかのように思われました。しかし二世代、三世代と時を経る内に、その感動は薄れ、単なる書き留められた一つの言葉となってしまいます。それどころか、勝手な解釈がなされ、形式化されていきました。そこにはもはや、神の力も、美しさもなくなっているようにさえ思えてきます。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10:17)
 パウロはそのような私たちに向けて、はっきりと語ります。信仰は、福音の告知を聞くことから生まれるのだ、と。神の言葉、キリストの言葉を聞いて信じる。聞いて、それに従うことから信仰が生まれる。私たちは時折、それを反対に考えてしまうことがあります。神のことを信じているから、神の言葉を聞こうというのではあります。また、神のことを信じているから、神の言葉に従おう、というのでもありません。まず聞くこと、そして従うことが先です。信じる、というと「自分の主観」で決断することだとばかり思ってしまいますが、それだけではありません。信じるようにしていただく、それもまた信仰の大きな側面です。
 人間の主観的決断・態度・行為としての信仰に先立つのは、神の言葉に他なりません。それは聖書に記されている一つ一つの言葉です。私たちはその言葉を聞き取らなければなりません。「読む」のではなく、「聞く」。そのようにして初めて、私たちの信仰は始まるのです。
 ですから、聖書は神のみ言葉としてまず聞かれなければなりません。訳がわかろうとわかるまいと、まず、神の言葉として受け止めましょう
 その言葉の先におられるのは、独りよがりのイメージや、自分の思い通りになる神ではありません。それは絶対的な他者、こちらからの働きかけとは一切関わりなく働かれる神です。そして、そうでありながらもなお、私たちと関わり続けようとされる神、私たちを愛し続けてくださる神なのです。その神の言葉として言葉を受けとった時、その言葉は大きな力を持って私たちに迫ってきます。神の力を感じることができるでしょう。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10:17)
 神の言葉を聞いた私たちは、神の力に全てを委ねることができるようになります。私を救いへと導いてくださる神を呼び求めます。一人で祈りながら呼び求めることもあるでしょう。また、礼拝という場を通して、私たちは共に神を呼び求めています。ですから、礼拝において、私たちの意識はいつも神の方を向いているはずです。自分が信じた方、信じている方に向けられているはずです。私たちが神を信じるのは神の言葉を聞いたから。聞いたからこそ信じたのです。見ることによってではありません。何かを体験することによってでもありません。言葉を聞いたからです。私たちは今、この時、この場所で新しく神の言葉に出会っています。そして、新しく力を与えられています。その喜びを受け取り直しています。神は私と共におられる"、その喜びが私たちを満たしています。


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