メッセージ


「とりなしの祈り」マタイによる福音書19章13~15節  井上創牧師

 イエスのもとに子どもたちを連れて来た人たちがいました。頭に手を置いてもらいたいというのです。これは祝福を与えてほしいということです。 旧約の昔には、祝福とは本人が与えられている神様からの恵みを、親しい人に譲り渡す儀式でした。しかし、イエスの生きた当時は、ユダヤ教の高名なラビが 子どもたちに祝福を与えることがあったのだろうと考えられます。つまり、イエスが有名になってきたということ、そしてそれに伴い多忙になりつつあったということがわかります。 忙しくなれば、優先してやるべきものを選択していかなければなりません。イエスの弟子たちにとっては、子どもに対する祝福の優先順位は 下の方でした。まずは、病人や緊急性の高い人を優先してイエスのところに連れて行っていたのでしょう。
 人間というのはランキングをしたがります。何かと何かを比べてどちらが優秀か。自分と相手とを比べて、成績がいいだの、優劣を比較して一喜一憂します。 あの人よりも私の方が辛い毎日だと思えば、あの人の悩みは放っておいて私を早く救ってほしいと祈ってしまいます。弟子たちばかりではありません。 私たちもまた、「元気なあの人は後回し」を当然と思っていないでしょうか。全ての人が救いを求めているのです。そこに優先順位は存在しているのでしょうか。
 イエスは「子どもたちを来させなさい」と言います。これは、子どもだから優先しなければならないという意味なのでしょうか。それでは、やはり 優劣をつけているに過ぎません。そうではなく、イエスは「妨げてはならない」と言っているのです。弟子たちは自分たちの先入観、常識の測りで 優先順位を決めていました。そして、己の判断によって、救いを求める他者を妨げてしまったのです。これは、子どもに限ったことではないでしょう。 自分の思いでイエスを求める人を妨げたということが問題にされているのです。
 「天の国はこのような者たちのものである」は、「これらの子どもたちのような人々は天の国のものである」とも訳せます。これらの子どもたちのような人々とは どのような人のことでしょうか。イエスを求めていた人々でしょうか。そうではありません。この子供たちはただ連れて来られたのです。 親によってか、周囲の大人たちによってかはわかりませんが、「祝福を受けて欲しい」と願われていたのです。つまり、「イエスに出会って欲しい」 と願われていたのです。つまり、「イエスに出会って欲しい」と誰かから願われている人々こそが、天の国に相応しいのです。
 天の国はもちろん求めている人たちのものです。しかし、それでは、求めていない人たちは天の国に入れないのでしょうか。 親の真剣な願い。「救われて欲しい」という願いは届かないのでしょうか。子どもたち自身はまだその意志はないかもしれない。それならば、この子どもたちは光のない闇路にただ迷うのみなのでしょうか。
 誰かのために天の国を祈ること、「とりなしの祈り」こそが、キリスト教の真骨頂です。イエスの十字架上の言葉、「この者たちをお許しください」 という祈りこそが、私たちの捧げるべき祈りのモデルです。死の瀬戸際、究極の状態にあっても他者のために祈るイエス。神さまはこのような祈りを決してないがしろにはなさりません。 耳を傾けてくださいます。私たちはこのイエスの祈りによって全ての罪を赦された者になりました。同じように、他者のために「とりなしの祈り」 を捧げる人々に神さまは必ず目を留めてくださるのです。
 ルカによる福音書の5章にこんな話があります。イエスがある家で癒しの業を行っていた。群衆が戸口まで一杯に押し寄せて家の中には容易に入れない状態でした。 そこへ、中風の人を連れた友人たちがやってきます。友人たちは戸口から入れないことがわかると、家の屋根をはがして中風の人をイエスのもとに床ごと下ろしたのです。 本来ならば、無礼、失礼に値するところですが、イエスはこの友人たちの信仰を見て中風の人に言われました。「あなたの罪は赦された」。 そしてこの人は歩けるようになるのです。とりなしの信仰がイエスに聞き入れられた物語です。
 他者のために祈り・思いに突き動かされて働くとき私たちには天の国の力が与えられます。そして反対に、そういう人たちの思いを 妨げようとする律法学者やファリサイ派の人々をイエスは時々に叱るのです。子どもと親を妨げた弟子たち、中風の人と友人たちを妨げた 学者たち。さて、私たちはどうでしょうか?いつまでも、比較して競い合う世界に浸っているのでしょうか。どっちが良い・悪いと言い募りながら暮らしていくのでしょうか。
 そのような生き方の対極にあるものは受け入れて分け合う生き方です。互いの弱さ・痛みを持ち寄り合い、それを祈り捧げ、その想いをキリストの体として分かち合う。 教会はそういう群れです。分かち合うことによって、自分の救い・癒しを祈ることと他者の痛みのために祈ることは重なっていきます。 やがて、それらは終わりの時には一つになるという希望を私たちは温めていたいのです。
 今から主の聖餐に与ります。私たちのこの食卓が、救いを求める人を妨げるものでありませんように。私たちが「共にこの食卓を囲みたい」と願う誰かを 心に浮かべ、その人のためにも祈っていくことができますように。


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