メッセージ


「いま出かけよう」 井上創牧師

 今日はペンテコステですから、本来ならば、弟子たちに聖霊が降臨したという物語の箇所を読まなければならないのかもしれません。 聖霊降臨の物語を覚えておられない方は、使徒言行録の2章をご覧ください。復活して、天に昇ったイエスを見ても、弟子たちは依然として家に閉じこもったままでした。 しかし、約束されていた聖霊が降りると、弟子たちは多くに勇気づけられ、街角で語り、様々な奇跡の業を行うようになるのです。 この物語の本質は、「神さまの力を受けた弟子たちが世に派遣されていく」ということで、これは実は使徒言行録全体のテーマでもあり、聖霊降臨の出来事はその最初の一歩なのだという事がわかります。
 恐らく、イエス復活後の弟子たちの活躍を、使徒言行録の編集に携わったルカだけしか知りえなかったという事はないだろうと思います。 他の3福音書の編集者たちも、ルカほど劇的ではないにしろ、弟子たちの変化や、伝道の志に目覚めるシーンを、それぞれの福音書に描いているのです。 実際、今日の箇所で派遣されていったはずの弟子たちは、11章以降も何食わぬ顔で、またイエスと共に登場し、傍らで食事をし、語らっています。 弟子たちの派遣をテーマにしたこの10章は半ば独立していて、前後の物語とつながっていないんです。これは恐らく、マタイが描いた、イエス復活後の弟子たちにまつわる物語なのでしょう。 そして、聖霊こそ降りませんでしたが、ここから教会が始まっていった、その最初の一歩としてこの物語は描かれているのです。
 少し厳しい表現で語られている部分もあります。9節から最後のところまでです。この厳しさは当時のマタイの教会がそれだけ多くの困難に囲まれていたのだという事でしょう。 迫害や命に係わる差別など、切迫した状況の中で、教会がまさに生まれようとしていた様子がよくわかります。もし、この時にYESかNOかを決めなければ、もうその先はない。 この言葉に耳を傾けりるか否か。そういう極限状態での選択は、間違うならば、相応な痛手を受けることになるのもうなずけます。
 このような状況にあって、教会を作るために、イエスが弟子たちにお命じになったことは、7節、8節のところに書かれています。すなわち、「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝える」ということ。 そして、「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」という事です。弟子とは、師の教えを学び、それを体現するものです。 イエスの言うように言い、イエスのするようにする。それが弟子であり、私たちは世に使わされていくにあたり、このことがイエスから命じられているのです。 「What would Jesus do?」「キリストならば、いかにしたまうか」、この問いをそれぞれの現場で問い、答えを求めていく。それがイエスの弟子、キリスト者なのです。
 特に、「天の国は近づいた」と宣べ伝えること、これは、イエスが世に出て最初にやったことでした。イエスは天の国が近づいているという事を言い、それを弟子たちのも伝えるようにと命じられたのです。 しかし、十字架と復活の後に弟子たちが宣べ伝えたのは、イエスのことでした。弟子たちは、イエスが言ったこと、イエスが世に来たこと、それがもう「天の国が近づいた」  という事なのだと考えたのです。イエスによって多くの人が癒されました。イエスによって多くの人が愛を知りました。イエスによって多くの人が神さまともう一度結び合わされました。 そう言った人たちが増えるに従って、「天の国が近づいた」という宣言が実感として近づいてくる。一人で寂しく、この地上で朽ち果てるのかと思っていた。 でも、もう一人ではない。イエス様がいつも一緒にいてくださる。もう天の国はどこか遠い出来事の話ではない。イエス様が共にいてくださるここに天の国があるのだ。 弟子たちは、そういう思いでイエス・キリストを宣べ伝えていくのです。
 イエスが来たことが、天の国が近づいたことであるなら、聖霊もまたそうです。聖霊によっても、天の国が近づいてきたことを私たちは知ることでしょう。 そもそも、天と地は分かたれたことによって、両者の間には超えることのできない境がありました。創造者と、被造物との間には決定的な違いがあったのです。 しかし、キリストはその壁を飛び越えて、こちらに来てくださった。それは、とてつもない事です。神は人となってくださったのです。それは、境を越えるためでした。
 そして、ただ来ただけではありません。十字架で死んだ後に、蘇り、天に帰って行ったのです。その境を再び超えてくださったのです。しかも、逆側に。 天から地へと降りることだけではなく。天へと登ることをも可能としてくださったのです。キリストによって、天と地との境は打ち破られました。 扉はどちらからも開くようになったのです。そして、続いて聖霊が天から地へと降ろされた。ならば、次は上る番です。何が、誰が昇るのか。それは、私たちです。 次は私たちが昇る番です。天の扉はすでに開かれているのです。聖霊が降されたことには、そういう意味もあるのです。私たちは礼拝において、聖餐式において、 聖霊がそこに豊かに降りるようにと祈ります。祈り、そう信じるとき、天と地の境にある扉は大きく開きます。そして、先に天にある者も、今地上にある者も一つになって主を讃えて共に食卓に与るのです。 その喜びを、今日心から味わうことができたらと思います。味わったのならば、喜びに満たされて、イエスに従う弟子の一人として、私たちも出かけましょう。 今、この礼拝の時からそれぞれの場所へと送り出されていきましょう。


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