私たちは、聖餐式の度に、「この体を生きた聖なる供え物として御前に奉げます」と祈ります。
聖餐式とは、キリストがまさに御自身を奉げてくださったように、それに与る私たちの命を、そこから始まる一週間の生活全てを神さまに奉げる
儀式であるとも言えるのでしょう。では、私たちは「信仰のために死ねるか」と問われれば、少し躊躇してしまうのではないでしょうか。
歴史に名だたる殉教者たちのように、自分の運命に抵抗も無く、従順に委ねていくということは、誰にでもできることではありません。
それでも、私たちは自分を押し殺してまでイエスに倣わなければならないのでしょうか。イエスの祈りに注目してみたいと思います。
39節でイエスは、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈っています。自分がこれから歩まねばならぬ道から、
何とか逃げ出したい。神さまの決定であっても、それを覆したい。そういう、不信仰とも言われかねないギリギリの、人間ならば誰でも持つような切実な願いを、
イエスもまた祈っているのです。ともすると、イエスの十字架への道は、他者愛と勇気に溢れた神の子の超人的なイメージで受け取られているかもしれません。
しかし、このイエスの選択が決して英雄的(ヒロイズム)なものでなかったことが、この祈りによって私たちにもわかるのではないでしょうか。何故なら、
私たちも困難な状況に置かれれば祈るからです。「神さま、何とかしてください」と。
イエスの祈りがこれで終わるなら、私たちとの間に共感を生むとしても、十字架への道のりは始まりません。イエスは続けて祈ります。「しかし、わたしの願い通りではなく、
御心のままに。」結局、イエスも全てを神さまに委ねることの出来る強い方だったのでしょうか。自分の思いを一番にすることのない、
謙虚な方だったのでしょうか。いったい、イエスが口にした神さまの「御心」とはどのようなものだったのでしょうか。
イエスが最後の夜に祈りを奉げた場所は「ゲツセマネ」と呼ばれた丘の上でした。ヨハネ福音書によれば、イエスと弟子たちは最後の晩餐の後で、
キドロンの谷を通ってこの丘に登りました。このキドロンの谷は、旧約の時代から多くの墓が築かれていました。現在も観光の名所となっているようです。
しかし、イエスの時代、ここには体や心に病や痛みを抱えた人たちがたくさん集まっていました。エルサレムの町は城壁で囲まれていますが、その壁の一角は神殿の壁で、
それが谷深くまで続いていました。この時代、ある種の病は罪の結果とされていました。罪深い人々は神殿に入ることは禁じられています。そのため、
救いを求めて神さまに縋りたいと思えば、神殿の裏手、この谷の底から、祈りを奉げるしかなかったのです。恐らく、イエスが祈った場所からは、この谷の風景が目に入ったはずです。
20世紀のドイツ神学者ボンヘッファーは「教会は他者のために存在する時にのみ教会である」と言いました。彼は、第二次大戦下のナチス・ドイツで、ヒトラーの暗殺を企てました。
殺人は確かに大罪です。しかし、このままではもっと多くの命が失われていくのだから、彼は「小」を殺すことで、「大」を生かすことを選んだのです。
今日の聖書、52節「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われているように、彼の暗殺計画は露見し、終戦直前に処刑されてしまいました。彼にしてみれば、
それも覚悟の上のことだったのでしょう。キリスト者は、自分が苦しみを受けている時にはそれに耐え忍び、他者が苦しみを受けている時にはそれに憤るものなのです。
イエスは、死にたくありませんでした。十字架という苦しみと辱めを味わうことは、できれば避けたかったのです。しかし、イエスの目の前には、
谷底で血を吐くように祈る人々の姿がありました。この人々を見て、イエスのハラワタは千切れんばかりになったことでしょう。この人たちのために、
何かをしたい。そういう思いに突き動かされるように、イエスは備えられた道を歩き出します。イエスは自分の中から湧き起こる抗い難い想いに、神さまの「御心」を見たのです。
一方で、弟子たちは、イエスを尻目に眠りこけています。眠るとは目を閉じることです。「死ぬばかりに悲しい」と心情を吐露するイエス。「お願いだから、
一緒に目を開けていて欲しい」「目を逸らさないで欲しい」と切願するイエス。その声から耳を遠ざけ、切羽詰った顔を見ぬ振りをして、弟子たちは自分の世界へと埋没していきます。
イエスならぬ、目の前の隣人が祈っていることにさえも、心を留めようとしない私たちの姿が、この弟子たちに重なってきます。
何も難しいことはないのです。悲壮な決意で、命をかけて世の人のために全てを投げ打つことが求められているのではないのです。そうではなく、
ただ隣で祈っている人と共に、目を覚まして祈ること。祈りを合わせて、一緒に時間を過ごすこと。すると、心の奥底から必ず、深い思いが響いてきて、何をなすべきかがわかるはずです。
そこから私たちの小さな信仰の歩みが始まるのです。イエスが先立ってくださいます。今日も共に祈りましょう。