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「全部ありったけ」2015年2月1日礼拝説教 井上創牧師

 イエスはこの世界の終わりについて語り終えました。いよいよ十字架の時がまじかに迫ってきます。敵対する者はイエスの殺害の計画を立てます。 この緊迫した状況にも関わらず、弟子たちはイエスが繰り返し語ってきた十字架の道を理解せず、例年のように過ぎ越しの祭りの準備を進めてきます。それは、ともすれば、彼らにとっては楽しい作業だったに違いありません。  これは正論であると言えるでしょう。この香油を売って、貧しい人に施すこともできるからです。イエスが、貧しい人たちのために 身を粉にして働いてきたように、イエスに従う者もまた貧しい人のために尽くすべきなのだ。こういった考えは現代の教会においても説かれています。 しかし、イエスは言います。「この人を困らせないでほしい。私に良いことをしてくれたのだ。」イエスが求めているのは正論ではありません。 この女性が貧しい人に施そうと、イエスに全てを捧げようと、心を込めてやったことについてとやかく言うことは誰にもできないのです。 一人一人が自分にとって良いと思うことをすればいいのです。弟子たちの周りに施しの必要な貧しい人がいるなら、弟子たち自身がその人たちに施せばいのです。そうしたい時に。
 そして何より、この女性だけが、弟子たちも気付いていなかった「イエスの十字架の意味」に気付いていました。だからこそ、イエスはこの女性のしたことを「良い」と言い、 それが「どこでも語り伝えられる」と宣言されたのです。この女性がしたことは、単に神に選ばれた者への「油注ぎ」ではありませんでした。 それは、葬りのための準備でした。この女性だけがイエスの死に対して真剣な態度で臨んでいたのです。彼女の周りにいたであろう貧しい人たちの中でも、 まさに今から死なんとしている目の前の命にこそ、彼女は全ての愛を注ごうとしたのです。
 私たちは、日々の暮らしの中で、ともすると「死」という現実から目を背けたり、その脅威をぼやかしてしまったりしているかもしれません。 しかし、死こそが本当に私たちが恐れるべきものなのではないでしょうか。そこにはあらゆる未来や希望が呑み込まれていきます。たとえ、五体が動かなくても、 私たちは命の輝きを信じることができます。しかし、死はその命をも支配しようとします。イエスはだから、死なねばならなかったのです。 生きて様々な奇跡を行った後、そのまま天に帰ることもできたはずです。しかし、人間にとって最強の敵である死をそのままにしておくことはできなかったのです。 イエスは、十字架で死に、そして死に打ち勝ち、復活します。この人間にとって最も深い愛の業、イエスの十字架の死。その準備である油注ぎ。 この葬りの準備が、今も記念され、語り伝えられています。それが、私たちの「礼拝」です。
 カトリックの東方正教会の礼拝は、聖餐式を中心としています。それは、イエスの死を通して与えられる救いの約束を記念したものだからです。 礼拝において大切なのは「想起」(アナムネーシス)です。救いの出来事が、思い出され、信じて集う人たちの中心で、それがまさに目の前で起こっているかのように 浮かび上がってくる。それが、アナムネーシスです。私たちがイエスの死を真剣に受け止める時、礼拝の中でそれは起こります。今まさに私たちのために死なんとするイエスを 現実のものとして捉える儀式です。
 教会の葬儀において重要なのは、遣わされた人たちが慰められることです。その慰めは、死を死として 受け入れることで与えられます。死という恐ろしい現実から逃避したままでは、本当の慰めは得られないのです。死ぬべき者を一旦死へと返し、その死に打ち勝つイエス ・キリストの力を信じることで、その先にある安らぎへと容れられていく故人を見送ることができるのです。葬儀は、関係を整理して、新たな関係へと踏み出していく場なのです。 洗礼も同じことです。キリストと共に一旦水の中で溺れ死んで、新しい関係へと生き直していく。キリストの死は、即復活へとつながり、 そこから新しい命が始まるのです。
 このキリストの葬りが礼拝です。礼拝の中で古い私たちもキリストと共に葬られ、新しい命を与えられて、次の一週間へと放たれていきます。 礼拝・葬りは日曜の朝だけでは終わりではありません。その行く先々でキリストの十字架を思い出すとき、心の中で葬りを行うとき、私たちはいつでも、新しい関係に 生きるものとしての一歩を踏み出すことができるのです。


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