メッセージ


「自分を低くして」2014年6月1日聖日礼拝 井上創牧師

 今日読んだテキストは、元々は一つのものであったと考えられます。しかし、私たちが耳にするのは前半の部分ばかりなのではないでしょうか。 この箇所は子どもが教会で大切な存在であることをアピールする際によく用いられます。もちろん、教会においても、どの社会にあっても子どもは大切です。 それでは、イエスの言う「天の国はこの子供たちのような者である」とは、単に子どもに何か大人とは違う素質があって、 それゆえに天国に入れるという意味なのでしようか。
 少し受け入れ難いかもしれませんが、聖書世界では子どもに求められていたのは器としての存在でした 聖書の民に与えられた究極の命題は、先祖のことや自分のこと、神さまとの関わりを子々孫々伝えていくことでした。 子どもは、その伝承を受け継ぐ器としての役割を期待されていたのです。そのため、子どもに必要なのは、「従順に受け入れる姿勢」でした。 親の言うがままである子どもが偉いと認められたのです。それが子供の持つ本姓であるかどうかということが問われているのではないのです。 子どもに求められているものは何かということが重要です。イエスが「天の国はそのような者たちのものである」と言う時、それは「従順に受け入れる者たちのものである」と言うことなのです。
 では、疑うならば天の国には入れないのでしょうか。そうではないだろうと思います。天の国にはたくさんの部屋が用意され、 イエス・キリストが私たちを迎えに来てくださいます。誰もが入れることは約束されていることだろうと私は思っています。 では、信じて従順に受け止める人に天の国が与えられるとはどういうことでしょうか。
 私たちは銀行の通帳に記入されている残高の数字をそのまま自分の財産だと思っています。銀行を信じているからです。 もし疑っていたら全額を現金にして手元に置くはずです。そもそも私たちは日本銀行券の価値を信じているから お財布にお金を入れて安心して暮らしているのです。同じような感覚で、私たちは天の国に招かれている神さまの子どもであると信じているでしょうか。 今現金を目にしなくても通帳に記載されている金額が自分の所有している財産であると信じている。天国には今いないけれどそれは 確実なものだと信じている。ならば、私たちはもう天の国にいるも同然ではないでしょうか。
 与えられているものを、出来事を、環境を素直に受け入れているとき、人は天の国にいるのです。 神さまが死を超えた次の世界で与えてくれるものを、たとえ理解できずとも、信じて受け入れている。そのとき、 私たちは何も恐れずに生きていけるのです。暗闇に閉ざされていると感じていたこの世界も天の国であると感じられるようになるのです。
 そういった浮世離れした仙人のような感覚を、私はみなさんに勧めます。それは即ち、この世界の価値観から 遊離するということです。イエスは言います。「つまずきは何処から来るのか。世から来る。」 誰もがそのつまずきを味わって子どもから大人になっていきます。従順であることを忘れ、疑いや偽りを覚えます。 誰もがつまずき、そしてキリストによって再び起こされるのです。私たちはつまずきを恐れません。しかし、 つまずかせる者は不幸であると言われているように、他者をつまずかせないように気を付けていたいと思うのです。 それこそが、世から来るもの、この世的なやり方から離れるということ、浮世離れなのです。
 今日のテキスト後半部分は教会学校教師の就任式に読まれることが多い個所です。教師ばかりに重い責任を負わせようとする 解釈を私はしたいと思いません。そうではなく、この箇所は、この世的な教育のあり方から離れることを勧めているのではないかとわたしは思うのです。 教師が生徒になにがしかを教える。与える。そういう上下関係がら離れ、むしろ教師が生徒に仕えるようになる。 師であるイエスが弟子の足を洗ったように、大人が子どもに学ぶ姿勢を持つ。信仰を教えるのではなく、子どもから信仰を学ぶ。 従順にこどもっを師をする姿勢こそが、教会の中につまずきを生まない方法なのではないでしょうか。
 自分を低くして相手から何かをもらおうとする。譲りの心で接することで、私たちの中にある神さまの愛は伝わっていきます。 自分を低くすることで、神さまから望まれている従順な器としての役割を果たしていくことができるのです。 この教会はそういった意味で一つの階段をクリアしていると言えるでしょう。それは、子どもや孫ほどの年齢の、若い牧師にも聞く姿勢を持っているからです。 後は同じように自分を低くしてお互いに学び合う気持ちを示し合った行けたらと思うのです。その互いへの愛が、教会の外にまで滲み出て、やがて伝道へとつながっていくのです。


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