今日は平和聖日として礼拝を守っています。私は「平和」の対極にあるのが「戦争」だとは思っていません。
戦争をしていなければ平和なのかと言えば、そうではないという事です。
戦争というのが、国と国との武力による争いであるとするならば、そういうことは今のこの国にはないように思えるかもしれません。
平和な日常が続いている。しかし、この国は本当に「平和」なのでしょうか?
古来より、人間の戦いは食料の奪い合いでした。食料にしろ、土地にしろ、何故奪うのかと言えば、それは自分が少しでも豊かになるためでした。
この豊かさを一目でわかるようにしたものが、たとえば「石高」や「貨幣」です。数字で豊かさが見えるよういなると、人間の欲望は不思議と駆り立てられて、もっと数字を大きくしたいと思うようになります。
どうしたら大きくなるか、他の人から奪えばいい、ということになります。そういう経済活動の一つが、大きな意味での戦争になります。資本主義経済と戦争の共通の目的は「相手から奪う」ということです。
これまでの戦争は、人と人とが直接にぶつかり合う戦いだったで、誰の目にも見えるやり方で命が犠牲となっていきました。
だからこそ、そういう武器や爆弾で殺されることが無いというのが、私たちの与えられてきた「平和」のイメージだったかもしれません。
しかし今や、「戦争」は形を変えました。誰も互いの命を、武器や兵器で奪うことは無いかもしれません。しかし、この国で生きている人たちの生活が無視され、命が使い捨てられている現状は、戦争と同じです。
数字を大きくするため、お金を増やすための「戦争」は形を変えて今でも続いているのです。
年間3万人を超える死者を出す戦場は、今この地球上には無いそうです。
しかし、この国では毎年3万人の人たちが自ら命を絶っているのです。この国は戦場です。
武器や爆弾で死ぬことはないでしょう。しかし、追い詰められて、殺されている人たちがいます。本当にこの国は平和なのでしょうか。競争社会と言われますが、もう戦争社会と呼んでもいいのではないでしょうか?
国と国の争いも同じです。競い合って、時に武力を使ったり、あるいは経済的な打撃を与え合ったり、そうやって競争することで何が生まれてくるのでしょうか。時々、競い合うことで素敵なものが生み出されるというようなことを聞きます。
それは、互いにが尊重し合っている場合に限られるのではないかとわたしは思います。
いがみ合って、足を引っ張り合いながら生み出られてきたものに、本当の喜びがあるのでしょうか。
今日の聖書箇所に、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあります。何を知ったのでしょうか。
それは、安息日論争の末、ファリサイ派が自分を殺そうとしているという事です。イエスは、徹底的にファリサイ派の人たちと抗戦することもできたことでしょう。
言い負かして、白黒はっきりさせて、彼らの活動を根底から揺るがせることもできたはずです。
しかし、イエスはそこを立ち去るのです。イエスが向かった先は、病気の人たちのところでした。
イエスの目的は、だれかと言い争って勝つことではなくて、痛む誰かのために祈り、手を差し伸べる事だったからです。
18節は明らかに、イエスの洗礼のシーンを思い出させようとしているものでしょう。
神さまに召し出されて、イエスは霊に導かれるままに、世界中の人に向けたメッセージを送りました。
ここで言われている「正義」とは、アメリカ大統領が中東諸国を叩きのめす時に持ち出す大義名分とは違います。
神さまは何を大事なことと考えておられるのかという事です。それは、19節からの部分です。
神さまの御心に適う歩み。それは、武力や威嚇による攻撃ではないばかりか、議論や言い争いでさえない。
ただ、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」そういう歩みのことである。とここでは言われています。
今日、これから皆さんと一緒に、ろうそくに灯をともして祈りを捧げたいと思っています。
私たちはこの灯火に何を託すのでしょうか。先の大戦にまつわる争いで、生きていたくても死ななければならなかった人たちの思い。
大切なものを奪われ、傷つけられて、生きていても死んだように空虚な日々を送っている人たちの無念。
今、この時代に追い立てられて、お題目の「平和」のもとに心を閉ざしてしまった人たちの奥底にある叫び。
本当の平和、キリストの平和を求めて、それを得たいと強く願っている人たちの祈り。そういうものを、灯火として、
目に見えて、肌に感じられる形にして、私たちは一緒に味わいたいと思います。
その声なき声、くすぶる灯火を心に留めてくださる方がおられます。私たちも、そのお方に従っていくことができたらと思うのです。
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