メッセージ


「生きているものの神」2014年11月2日聖日礼拝  井上創牧師

 サドカイ派はモーセ五書と書かれている律法を遵守して、口伝や五書に根拠の無いことは否定していました。そのため、、サドカイ派は「魂は肉体と共に死ぬ」と信じていました。今日の物語 ではそのサドカイ派の人々が、復活について質問をしています。この質問の背景にあるのは、申命記25章5以下に記されている「レビラート婚」です。兄が死ねば弟がその血を絶やさないために責任を持つ、 というのがその内容でした。さて、ある女性が七人の兄弟と結婚して悉く死別してしまいました。もしも復活があるとして、全員復活したならその女性を誰が娶るのでしょうか。実際にそういう人がいたか どうかは問題ではないのです。復活は不合理であると主張するため、復活の教理をネタにイエスを攻撃するためにこういったケースを持ち出したのです。
 イエスはこれに対して、「勘違いをしている」と厳しくサドカイ派に反論します。あなたたちは神さまの力を知らない。神さまは死の向こう側の世界に手を伸ばせるお方なのだ。そちらもまた支配して おられる。思いのままだ。行ったこともない私たちの考えも及ばない世界がそこには待っている。そう。私たちは死んでみたこともなければ、神さまの力の全てを見たわけでもないのです。 私たちがこの世界において課題としている出来事も、次の世界においては全く違った形になっているかもしれないのです。
 私たちは母の胎内にいる時は外の世界を知りません。産声に込められている感情を分析すると、わからない世界へ出て行く「不安」の感情が含まれているそうです。生まれるまではわからない。育っていく 中で世界を知っていくものなのではないでしょうか。私たちはまだこの世界に含まれています。胎児と同じように、生まれ出たことのない次の世界への不安があるかもしれません。しかし、体内で聞く母の声に 「安心感」を味わう胎児のように、この世界で自分を愛してくれる大きな存在に触れたなら、次の世界への不安も和らいでいくのではないでしょうか。
 イエスが言う「天使のようになる」との意味は不明ですが、どうやら、結婚を含めたこの世界の決まりごとを超えた存在になるということであるようです。しかし、聖書に語られている天使の第一の勧めは、 神さまの言葉を伝えるということです。つまり、私たちは死を通して、神さまの愛を身を持って顕す存在へと変えられていくのだ、というふうにも考えることができるのではないでしょうか。そうであるとすれば、 葬儀の時はまさに天使としての第一歩です。その人の生涯を通じて神さまの愛が注がれ続けていたことがそこで告白されるからです。集う人々もまた、この世界で愛されていることを実感するならば、 次の世界への希望も湧いてくるはずです。
 32節は出エジプト記3章6節からの引用です。モーセに対する神さまの名乗りの場面です。「私はこういう神だ」と自己紹介をする際に神さまは三人の人の名前を挙げます。この三人はモーセより遙か 昔の先祖です。もう既に死んでいる人たちであるはずですが、続けて、この神が「生きている者の神だ」と宣言されます。これは、モーセの前に顕れた神が、ある特定の時代にだけいる神ではなく、どの時代 にも存在し、人間の営みに関わり続けている、まさに「生(なま)の」「生きている」神だということを言わんとしているのです。死んだ人のための神は、死後の世界に待ち受けていて、そこで人々に希望 を与えるのでしょう。しかし、聖書の神さまは、来世にのみいるのではありません。全ての時代において、それぞれが刻んできた物語に関わり続けている神さまです。そして、死んでしまったかに見える、 消え去ってしまったかに思える過去の人々の物語が、その神さまの名の中に生き続けているのです。その神さまが今この礼拝の時にあなたに触れてくださいます。
 あなたも今、永遠の物語の一部に加えられようとしています。聖書の大切なメッセージは、神さまはあなたの物語と共にある、ということです。キリストは十字架と復活によって死に勝ち、死の力を空しい ものにしてくださいました。もはや死の世界は恐ろしいものではなくなったのです。死後にしか救いはないと思うならば、今のこの世界はどうでもよくなってしまうことでしょう。これは、死に捉われた生です。 生きているものの神は、今この時の歴史に介入して、一人ひとりの人生に語りかけてくださっています。私たちはその声を聞いて、それを更に大きな声としてこの世界に響かせていくことができたらと思うの です。死に憧れる人に生の素晴らしさを伝えていく、この世界に絶望している人に希望を伝えていく、今あなたと共に生きている神を伝えていく。これこそが、教会の目指す伝道なのではないでしょうか。


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