「待ち望む」2015年8月9日礼拝説教  北村 裕樹牧師  戻る


 使徒言行録17章は、テサロニケの教会が直面した問題について伝えています。曰く、ユダヤ人たちが暴動を起こし、テサロニケの信者たちを襲った、と。テサロニケの教会の人々は、キリストを信じるがゆえに、多くの苦しみと迫害に耐えていました。そのテサロニケの教会こそ、マケドニア地方の模範となった、とパウロは手紙に記しています。ただ、誉められているのはその「忍耐」ではありません。テサロニケの教会の「信仰が至るところで伝えられている」(テサロニケの信徒への手紙一1:8)とあるように、パウロは彼らの「信仰」を誉めているのです。
 ところで、パウロの手紙において「信仰」とは観念的なものではありません。具体的な生活態度、生き方、神の恵みに対する具体的な応答を意味しています。
 では、その具体的な応答とは何なのか。この手紙から読み取れることは、まず「聞く」ということでしょう。パウロはローマの信徒への手紙で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙10:17)と述べています。パウロにとって信仰とはまず「聞く」こと、宣教をどのように受け止めるかということでした。
 その観点から9節「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」(テサロニケの信徒への手紙一1:9)を読む時、この文がパウロ一行の迎え入れ方について言っているのではないことがわかります。待遇の善し悪しではなく、教会の人々がパウロが伝えた福音に耳を傾けたということを言いたい。テサロニケの教会の人々が苦難の中にあって、パウロたちの伝えた福音を迎え入れ、その言葉に立って生きたことが評価されています。つまり、ここでは「迎える」という語が「聞いて行う」という意味で用いられているのです。
 もう一つの応答は、具体的な生活の変化です。「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」(テサロニケの信徒への手紙一1:9)は、単に他宗教に対する排他的な姿勢を言うのではありません。強調されているのは「神に立ち帰り、生けるまことの神に仕える」こと。他のものに目を奪われる事無く、「生けるまことの神」への集中を意味しています。
 そしてパウロは最後に、「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(テサロニケの信徒への手紙一1:10)ことを具体的な応答としてあげています。イエスの再臨、終末の到来への希望を持ってこの世界の様々な困難に立ち向かっているかが問われているのです。
 この世にあって、希望は何もないと思えるかもしれません。しかし、なお、教会は希望を持ち続けています。究極の希望は「御子が天から来られるのを待ち望む」ところにあります。これまでもそうであったように、教会は信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐し続けるのです。
 私たちは信仰生活の中でくじけてしまうことがあります。苦しみの連鎖に陥り、立ち上がることが難しくなる時があります。その患難をじっと耐えるだけならば、それはどこかで必ず破れてしまうでしょう。自分自身の力だけでその患難に立ち向かうことは難しい。そのような時に自分を支えるのはやはり「信仰」しかありません。福音を聞いて行い、具体的な形で神に仕え、イエスの再臨を待ち望む生き方こそが、患難に立ち向かう力を与えてくれるのです。
 しかし、主が再び来られる時がいつかは誰も知りません。ルカによる福音書に、「人の子は思いがけない時に来る」(ルカによる福音書12:40)、「予想しない日、思いがけない時に帰って来て」(ルカによる福音書12:46)とあるように、人間には予測不可能です。
 だからこそ、「あなたがたも用意していなさい」(ルカによる福音書12:40)という言葉を忘れないでいたいのです。「待ち望む」とは、ただじっと待っているだけではありません。いつも備えて待つ、ということです。ただし、その備えは、裁きに対する恐れによって導かれた行動であってはなりません。恐れは萎縮を生みます。萎縮は救いに対する期待と希望を失わせます。そうではなく、救いの完成に対する希望に導かれた言動、具体的な応答こそ、私たちの「信仰」です。その信仰を持って来たる時を待ち望みましょう。
 具体的には、私たちが私たちの社会や歴史に関わり、いのちを与えられた神をリアリティーをもって受け入れ、どのような生き方をしているかが問題となるでしょう。現代においては、宗教的な偶像よりも、むしろ社会的・経済的な偶像に目を向ける必要があると感じます。いのちを大切にしておられる神の呼びかけに私たちは具体的にどのような形で応え、神に仕えることができているでしょうか。どれほどの備えをしながら、その時を待ち望んでいるでしょうか。


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