メッセージ


2014年3月2日聖日礼拝「自分の十字架」 井上創牧師


 先週は「東アジアについて考える」ということで、韓国出身である金(きむ)先生のお話を聞きました。 神さまは、必ずしも私たちが望む方向へとわたしたちを導いてくれるのではないということ。そして、自分の思いもよらないところに 神様の恵みが置かれていることを聞きました。使徒言行録のパウロの旅路と金先生ご自身の体験を重ねられてのお話でした。 使徒言行録を読んでみると、パウロの旅はいつも思いどうりに行かなかったのだということがわかります。望んだ道が聖霊やイエスによって妨げられる。 同行人との決別。エルサレム教会との見解の相違。行く先々での迫害。身に刺さった棘。パウロのする証は、自分の望みがかなったこと、 奇跡によってうれしいことが起こったといったものではありません。望みは叶わなかった。しかし、キリストが共にいてくださった。 痛みも苦しみもむしろ増えた、しかし、望みは十分であるという言葉を聞いた。キリストが共にいてくださる。他には何も要らない。自分の思いを遙かに超えた神さまの考えが自分の身に起こっている。 それがパウロの証でした。
 マタイは旧約聖書を多用します。それは、イエスの出来事が預言の成就であったと考えているからです。それでは、イエスご自身は、これから自らの身に起こることを 知っていたのでしょうか。今日の箇所を読むと知っていたようです。それでは、知りながらも尚、落ち着いておられたのでしょうか。恐らく、 大きく動揺していたのではないかと思います。それをハッキリと見せることはなかったとしても、です。もしもイエスが死や痛みを恐れない超自然的存在ならば、 本当の意味で人間の苦しみに寄り添うことはできないでしょう。これから身に起こることを知り、イエスがそれを恐れていたことがマタイ26章の ゲッセマネの園での祈りからもわかります。イエスは「悲しみもだえて」、この出来事を「過ぎ去らせてください」と祈ります。そして27章、 「なぜ私をお見捨てになったのですか」と絶望的な言葉を最後に命を閉じるのです。思い通りにならないことの恐ろしさ。 それを受け止めなければならない人間と共に歩もうとする神さまの姿をマタイのイエスは映しているのです。
 21節からマタイ福音書は新しい展開が始まります。十字架の道を歩もうとするイエスがエルサレムへの旅を始めるのです。まず弟子たちに、そこで起こることが打ち明けられます。 弟子たちはショックを受けます。死とは敗北であり、ユダヤ教の指導者たちがら拒否されることは、即ちユダヤ社会から完全に葬り去られることを意味していたからです。 ペトロがそれを諌めようとすると、イエスは言います。「サタン、引き下がれ。」この引き下がるという言葉は、「ついて来る」と言う言葉と語源が似ているそうです。つまり、 先頭に立つな、前に出るな、一歩下がれ、ということでよう。では、下がる自分に代わって、何が前に出てくるのでしょうか。
 サタン、つまり悪魔とは何かということが、続くイエスの言葉によって示されます。悪魔とは、神のことを思わないで邪魔をしようとすることです。つまり、自分勝手な振る舞いを意味しています。 罪とは何だったか思い出してみましょう。これも、自分の思いにだけ囚われて、神さまや他者のことを忘れてしまうことでした。全ての悪いこと、 失敗は、自分の思いだけに囚われることから始まっていきます。自分が正しいと信じれば、争いが起こり、関係は破綻してしまいます。イエスが進もうとしている道は 神さまが備えたものです。しかし、ぺトロは人間的な思いでそれを妨げてしまします。これが罪であり、悪魔の仕業です。それでは、 私たちはそのような悪魔的な誘惑から逃れるために何をしたらよいのでしょうか。
 イエスは24勝、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」と言います。自分を捨てるとは、単純に命や生活を犠牲にすることではありません。 価値観や思い込みを捨てる、自分を前に出すことを止めるということです。自分に都合のいい考え方を「神の御心」と呼ぶことは容易いことでよう。、 しかし、イエスはどうだったでしょうか。たとえ、自分にとって都合の悪いことであったとしても、それを「神の御心」として受け止めたのです。そして、その結果が十字架でした。 私たちが背負うべき自分の十字架とは、自分に都合の悪いことも「神の御心」として受け止めていくことなのではないでしょうか。私たちが引き下がり、 代わりに前に立てなければならないのは「神の御心」なのです。
 今日の聖書箇所後半の部分は、世の終わりに何が起こるのかということが告げられています。終わりの時に神様がそれぞれの行いに応じて報いてくださる(因果応報) という考えは、旧約的な概念かもしれませんが、それでもこの世界で辛い毎日を耐え抜いている人たちんびとっては励ましであり、慰めとして響くことでしょう。 そして、この終わりの時とは、遠い未来の事ではないと聖書は言います。もう本当に次の瞬間にも終わりの時が来て、(そしてそれはキリストの再臨へと繁がっていくのですが) 神さまに忠実であったものに報いが与えれる。その信仰がこの聖書箇所にはには込められています。
 終わりの時にはキリストが来て、共にいてくださいます。私たちは独りぼっちではありません。その向こう側があります。全ての結末が喜びに代わる時、それが終わりの時なのです。 そして、今この時こそが、その時だ。キリストが共にいてくださる時なのだと信じて生きていくのがキリスト者なのです。終末の希望を胸に、己を引き下げて、十字架を前に立てて歩んでいきましょう。


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