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世の罪を取り除く  2015年1月10日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 「罪」は、カトリックのミサ式文において次のように告白されます。「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」。この言葉だけを捉えると、悪いことを考えた、悪い言葉を発した、悪いことをした、何かをしなくて悪かった。そんな悪い私をキリストは赦してくださった、ということになるでしょう。
 また、旧約聖書の創世記には「原罪」と呼ばれる場面があります。アダムとエヴァは、エデンの園を追い出され、仕事をしなければならず、病気になり、死んでいく人生となったと読めます。しかし、罪を犯したから、その罰として楽園から追放されたと考えるのは短絡的です。
 そもそも、「罪」とは元々は的を外すことを意味しています。
 具体的には、この世が神の言葉によって造られ、この世のあらゆる人がその真の光によって照らされているにもかかわらず、神の言葉を知らず、肉となった神の言葉を迎え入れないことを意味します。この世の人々は神からの真の光に照らされても、神という的に向かって正しく栄光を帰することがありません。その意味で、罪とは的外れなのです。
 それを象徴するように、後に、人々はこの世の罪を取り除いてくれる神の子羊イエス自身を、この世から取り除こうとします。人々は総督ピラトに対して、「殺せ。殺せ。十字架につけろ」(ヨハネによる福音書19:15)と叫びます。新共同訳では「殺せ」と訳されている語は、罪を「取り除く」と同じです。つまり、人々は「世の罪を取り除く」神の子羊を「取り除け」と叫ぶのです。「取り除け、取り除け、彼を十字架にかけろ!」。これこそ的外れな叫びと言えるでしょう。
 さて、イエスの生涯には躓きの石が二つあります。それは、ヨハネの洗礼と十字架の死です。これらは共に罪と関係しています。洗礼は罪からの訣別です。また、十字架は罪に死ぬことです。無垢、無謬(むびゅう=誤りのないこと)であるはずのイエスが、罪を前提とする洗礼と十字架を経験されるのです。これが躓きの原因となります。イエスは罪人なのか、と。
 イエスがヨハネから洗礼を受け、ヨハネの弟子となった時期があるのは間違いないでしょう。ヨハネの洗礼は受ける人を水中に沈めます。多くの人がヨハネの下に集まり、厳しい指導の言葉を聞き、改心して洗礼を受けました。
 日本には「水に流す」という言葉があります。あったことを無かったことにする時に使われる言葉です。罪を犯した者にとっては、罪悪感を軽減するかも知れませんが、罪の犠牲となった者にとっては、何の癒しももたらしません。忘れるようにと言われても、解決がつかず、苦悶の日々を送らざるを得ない場合もあるでしょう。従軍慰安婦の問題、南京虐殺、植民地支配、国民儀礼の強制など、犠牲者やその家族にとって深い傷を残したまま、今日に至っています。ところが、政治の指導者たちはそれを水に流して、あたかも罪がなかったかのように振る舞いたいようです。しかし、政治家が水に流し、人々が水に流そうとしても、受けた痛手は歴史の彼方へと流れません。一人一人のうちにいつまでも澱んで、人生という川の濁りとなるのです。
 確かに、洗礼は水を用います。もし洗礼が身についた罪や汚れを洗い流すだけのもの、水に流すだけのものならば、私たちは何度も洗礼を受けなければならなくなるでしょう。毎日どころか、毎時間、毎分洗い続けなければ、私たちの汚れが洗い清められることはありません。けれども、洗礼はそのようなものではありません。誤魔化しや隠蔽とは正反対の性格を持っています。罪を水に流すのではなく、むしろ罪を明らかにし、神の前で告白して赦しを求めるものです。そんな私を赦し続けてくださる神がおられることを実感することです。それが「ただ一回の洗礼」であり、「ただ一回の赦し」であるという意味です。それが「世の罪を取り除く」神の子羊の業なのです。
 しかし、私たちの前にある現実は、その前提をも覆そうとします。誰も救われてなどいないではないか。救ってくれる神などいないではないか。誰も私を顧みてくれないではないか。そんな言葉が聞こえてくるようです。そればかりか、安全と平安を求める人々は「ホーム」からますます遠ざけられようとしています。
 どうすれば、この状況から脱することができるのでしょうか。
 私たちは、聖書の中に「永遠の命」があると考え、聖書の学びをします。しかし聖書それ自体に「永遠の命」はありません。その原料、その材料がたっぷりと詰まっています。それが「永遠の命」となるためには、土の器を媒介として人々にそれが証しされなければなりません。今こそ、神と人々から切り離されて散っている人たちに呼びかけるイエスの働きが、求められています。神はミカヤに語られたのと同じ様に、私たちにも語りかけられています。「彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ」(列王記上22:17)と。
 キリスト教の二千年の歴史を振り返る時、まさに土の器によって神の言葉が担われ、証しされた歴史がそこにあります。アドベントのこの時、土の器である私たちは、再びこの証しの歴史へと招かれています。「ホーム」に「無事に帰る」ことのできた私たちは、今度は「証し人」としてこの地上に立ち続けるのです。
 その意味で、聖書の「罪」という言葉は、もっと広く解釈される必要があるでしょう。罪とはこの世が天国であることを阻んでいるすべてのものです。私たちの心を神からそらせてしまおうとする全ての力です。その全てから神は私たちを救おうとされるのです。神が世界を創造された初め、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と言われた「人」はエデンの園で何不自由なく安心して暮らしていました。私たちを再びそこへ招こうとされるのが神の愛、神の親心なのです。
 いつも「的外れ」な私たちです。神から目を背け、神のことを忘れ、神のことを知らないと言い、神ならぬものを神としてしまう私たちです。そんな私たちでありながら、いつも神に愛されている存在であることを忘れないでいたいと願います。
 年頭聖句はその一助となるでしょう。何もかも忘れてしまう私たちが、「的」を外してばかりの私たちが、せめてこれだけは、と心にとめる神の言葉。大切な神の言葉を胸にこの一年を過ごして参りましょう。


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