メッセージ


2013年12月1日聖日礼拝 「言の力」 井上創牧師

 ヨハネによる福音書は、その冒頭に「初めに言があった」と綴ります。「言」とは、私たちが普段使っている「言葉」とは少し別物です。 14節を見ると、この「言」とは受肉したキリストのことであるということがわかります。しかし、1節から読み始めた人には、そのことは伏せられています。 1節は「言は神と共にあった」と続きます。「あった」と言うからには、これは神が創造したものではないということを意味しています。 最初の最初から、世界の創造が行われる前から、「言」は「あった」のです。創造されたもの、被造物ではない。創造する側の存在、つまり「言は神であった」のです。
 万物はこの「言」によって成りました。この「言」の故に、世のあらゆるものが成立したのです。逆に言えば、「言」がなければ何も成立しない。 その存在の意味を得ない、ということです。私たちは何故生きるのか。何故この世界に生まれたのか。その訳は「言」によらなければわからないのです。 万物の成り立ちについて語られる時、私たちは旧約聖書の創世記に記されている創造物語を思い出すのではないでしょうか。 神さまが、「光あれ」と命ずると光が生まれる。そうやって、全てのものが創り出されていくのです。
 この創造物語が、本当にあった話しであると、現代日本の学校では教えていません。現代科学の有力な仮説に則れば、この宇宙はビッグバンと呼ばれる出来事から始まりました。 何も無い空間に(空間さえ無いと言えるでしょうか)、何事かが起きて、そこからありとあらゆる元素が生まれ、宇宙は広がって行きました。 ただ物質の誕生と、その存在について語るだけであるなら、この説明でも十分であろうと思われます。そして、この仮説を前提とするならば、 今日ここに集まっているみなさんは、炭素の集合体が、超天文学的な確率の偶然によって寄り集まった状態であるに過ぎません。 偶然ビッグバンが起きて、偶然地球ができて、偶然この時間帯にこの場所に炭素の塊が集まっている。それでいい人は、それでいいのでしょう。 しかし、私はそこにもっと大きな意味があるのではないかと思っているのです。偶然、宇宙が生まれたのでしょうか。
 創造物語において、神さまは「光あれ」と言われました。「あれ」という命令、願いがこの言葉の中には込められています。 全てのものは、神さまに「あれ」と言われて創られているのです。みなさんの中に、自分で望んで生まれてきた人がいるでしょうか。 いないはずです。全ての人は、望まれたから生まれてきたのです。両親にか。いえ、それよりももっと大きな意志によって強く望まれて、 一人ひとりが生まれてきたのです。だから、私たちには責任がありません。責任は望んで生んだ側にあります。私たちは「あれ」と言われて創られた。 だから、ただ「あれ」ばいいのです。後のことは、全て任せて生きていけばいいのです。
 「言」とは単に「言葉」のことではありません。「言」の中には神さまの意志、強い願いが含まれています。そして、その思い(言)がこの世界に具現化して現れた、 肉をまとって、私たちの五感で感じる形になって現れたのがイエスであると聖書は言います。イエスこそが生きた神さまの意志なのです。 イエスは傷つき、隅に追いやられた人といつも共にいました。この世界で生きる意味を見失い、死の世界に囚われている人たちに、 「あなたよ、あれ」というメッセージを発信し続けました。時に口から出る言葉によって、あるいはその行い、振る舞いによって。 だから、この暗闇の世界に産み落とされた私たちが、何を目当てに生きればいいのか迷う時、イエスは私たちの光なのです。
 私たちは本当に偶然にここに集っているのでしょうか。イエスは私たちの間に宿られました。「あれ」と願う強い思いが神さまと私をつなぎ、 私と世界をつないでいます。あなたは望まれてここにいる。ここにいるあなたには意味がある。そのことを、互いのつながりの中で感じ、信じていけたらと思います。 そういう場所として、教会を作り上げていくことができたらと思います。
 「初めに言があった」。ヨハネによる福音書は、創造の最初から、私たちが救われるようにという、神さまの願いがあったのだと言います。 そして、その思いに繋がっていなさい、全て創造されたものは「言」、神さまの強い願いによって成り立っていると言います。 私たちの存在の意味をそこに見出していけたらと思います。与えられた存在の意味を、深く受け止めて感謝の日々を送っていきましょう。


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