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「その道を歩もう」イザヤ書2章1-5節 2016年11月27日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 いつも多人数で礼拝を守っていると、どこかで「来て当たり前」「来られて当たり前」という感覚になってしまうことがあります。集ってくる人は皆、同じ一人なのに、全く違う対応をしていたりします。いつも隣にいる人は当たり前にそこにいるのではありません。「あの人は今、どうしているだろう」という感覚を持ちたいと思います。
 そしてそれは、たった一人のイエス・キリストについても同じことが言えるでしょう。クリスマスが来るのは当たり前。私たちのためにイエスが生まれるのは当たり前。年中行事の一つとしてやってきて、過ぎ去っていきます。その喜びを我がこととするのは良いことなのですが、その身に引きつけすぎてその価値を忘れてしまっています。本当の「その日、その時」は誰も知りません。私たちはただ、「その日、その時」を待つしかできないのです。
 また、礼拝出席の人数が増えることは良いことでしょう。少しでも多くの方と一緒に礼拝を守りたいと願います。しかし、その手段と目的が逆さまになってしまうことがあるでしょう。「たった一人」が来てくれることを喜ぶことなく、いつの間にか、人数を増やすことだけに終始してしまうのです。そして、自分たちの勢力を増やすためだけに争いが生まれます。神の言葉を都合よく解釈するようになります。そこに本当の平和があるでしょうか。
 教会は、人数の多寡や献金額の多寡など、「実による喜び」によって支えられているのではありません。むしろ「待つことの喜び」によって支えられています。イエスの誕生を待ち望むように、集う一人一人一人を待つのです。終末の日を待つのです。
 「期待」が「よい結果や状態を予期して、その実現を待ち望むこと」(大辞林)であるなら、「主の来臨」はそもそも「期待」ではありません。いつ・どのようにかわからない以上、私たちは結果や状態を思い描くことさえできないのだ、ということでしょう。
 だからこそ、私たちが願うのは「期待」ではなく「希望」です。私が思い描いた通りにはならないかもしれません。この世の価値観から見たら「良いこと」に恵まれないかもしれません。たとえそうであったとしても、主が与えてくださる通りにこの身に受けることが大切です。主が与えてくださる恵みの、その全てを知り得ないからこそそれを待ち望むこと、それが私たちの「希望」の姿なのでしょう。
 イエスは二千年前にこの地上に来てくださったのと同様に、終末の時、必ず来てくださるという希望が私たちを生かすのです。一人でも多くの方とご一緒に、キリストの希望による「待つ喜び」を共にしたい。心からそう願います。
 では、その希望が実現する日はいつなのでしょう。
 イザヤは「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる」(イザヤ2:2)と主の来臨の希望を語っています。「終わりの日」とはいつでしょうか。「主の神殿の山」が「どの峰よりも高くそびえる」のはいつでしょうか。それは突然そうなるのではありません。ある日突然やってくる「終わりの日」に、急に実現するのではないのです。
 イザヤの言う「終わりの日」とは「今」のことに他なりません。いつかどこかの将来、私たちに光が照らされる、というのではない。「今、あなたたちは光に照らされている。」とイザヤは言います。日常生活の中で神を証しするのです。神と共に歩む自分を実感するのです。足下ばかり見ていては光に気づきません。あなたはすでに光の中にいるのに、その光に気づいていない、と言われます。「その光の中を歩もう」と呼びかけられているのです。
 「あしあと Footprints」という詩があります。人生の来し方を振り返ってみると、主と共に歩んでいたはずの道のりの途中、一番辛い時に一つしか足跡が無かった。そこで詩人は主に尋ねます。「あなたを最も必要としたときに見捨てられたのはなぜですか。」主は応えられました。「最も苦しいとき、私はあなたを背負って歩いていた」と。
 「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」(イザヤ2:3)
 すでに道は示されています。二千年以上前から私たちの前途は照らされています。すでに私たちはその道を歩んでいます。その道を歩み続ける勇気はどこからわいてくるのでしょうか。それは、どこか遠くから来るのではなく、歩いている中で気づいていくものです。まさにインマヌエル(=「神は我々と共におられる」)。その道は歩いてみないとわかりません。歩く前から諦めたら、もっとわからないでしょう。すでに道は示されています。これからも主が共に歩んでくださると安心して、主の道を光に照らされながら歩んでまいりましょう。


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