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愛に訴えてお願いします。 2015年10月4日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 パウロの数ある手紙の中で、フィレモンへの手紙は一番短く、私信の性格が最も顕著です。 パウロの導きでキリスト者となったフィレモンの元から、その奴隷オネシモが逃亡しました。このオネシモ自身、 フィレモンとは違う形でパウロと出会い、キリスト者となっていました。ところで、当時の社会は奴隷制度を既成事実としており、 見つかった逃亡奴隷を主人の下に送還するよう義務づけていました。そこでパウロは手紙を書いたのです。
 この手紙は私信のようでありながら、全く個人的な手紙に過ぎないわけではなく、「奴隷制度」という歴史的な環境の中で、 キリスト者がどのように「愛」を実践していくべきかということを、教会にも関わる問題として語っています。しかし、 近代において、イギリスやアメリカの奴隷制度の是非をめぐって繰り広げられた議論の際、奴隷制度支持者、反対者の両方がこの箇所を引用し、 根拠としたことは有名な話です。「奴隷制度」という人権を踏みにじる社会不正を、なぜパウロは批判せず、攻撃しないのか。パウロの言葉は、 いずれもこの制度を前提とし、容認した上での発言ではないのか。私たちもまたこのような疑問に直面します。
 その疑問に一言で回答するならば、パウロも「時代の子」であったということでしょう。そして、この手紙は、 奴隷制度という社会的現実についての論文ではないということでもあります。では、パウロはこの問題をどのように乗り越えようとするのでしょうか。
 パウロは、奴隷を「愛する兄弟」として「兄弟フィレモン」に示し、パウロ自身と思って奴隷を歓迎するよう主人に命じることによって、 実質的に差別を解消しようと試みています。この分野で効力を有する原則は「愛」だけである、と。
 「あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、 自発的になされるようにと思うからです」(フィレモン14)。
 意識の変革がなければ、制度の形態が変わり、主従の位置が逆転しても、抑圧と非抑圧の事実は変わりません。パウロは、「相手の権利を尊重し、 帰すべきものを帰す」という意味での「正義」を重んじる人です。加えて、それ自体善いことだとしても、それを「強制する」ことをパウロは避けるのです。
 「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」(フィレモン8-9)。
 「あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう」(フィレモン21)。
 パウロはフィレモンが自分の要望に、心理面でも実践面でも応えてくれることを期待しています。フィレモンがパウロの言葉に従うことを確信しています。 フィレモンの愛の実行、それも自分の要望を上回る愛の実行を確認することができるものと信頼している、とパウロは言うのです
 ところで、パウロの言う「わたしが言う以上のこと」が具体的に何を指しているのか、わかりません。奴隷オネシモを迎え入れるだけではなく、 解放し、自由の身にしてやるということでしょうか。実はオネシモの身の上について、フィレモンがどう決定を下すべきか、 パウロは手紙の中で一度も具体的な指示を出していません。
 愛」という原則だけを打ち出し、この基準に則ってフィレモンが自ら決定する余地を残しています。そして、 フィレモンが絶対に破ってはならないとされていることは、神の意思としての愛が、彼の行為の基準とならなければならない、ということだけなのです。
 こうまで深い信頼を寄せられたフィレモンが、この信頼を裏切る結果になるような態度を取ることができたでしょうか。それは誰にもわかりません。 しかし、私たちは信じたい。フィレモンがこのパウロの信頼に応えたことを。それは何よりも私たちを信頼し、愛してくださる神との関係において、 その相似形を見ることができるからです。
 10月第1日曜日は「世界聖餐日」、「世界宣教の日」です。世界の教会が教派を超えて、一人の主に連なる一つの教会であることを、 主の聖餐に与ることを通して経験する日。世界聖餐日の意義は、世界中の異なった教派、文化、政治・経済体制の中にある個々の教会が、 主イエス・キリストの体であるパンと、血である葡萄酒(杯)を分かち合うことを基本としています。それも、ただ形式的に一致するだけでなく、 「愛の交わり」の中で愛を分かち合うものとなるように、と招かれています。
 私たちもまた、日々の礼拝を通して、愛を分かち合う関係へと招かれています。そして、「あなたはすでにそのようにできる」 と神から全幅の信頼を得ています。その期待に応える歩みを、共々に歩んで参りたいと心から願います。


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