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「ヨセフは起きて」マタイによる福音書2章13-23節 2017年1月1日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 新しい一年が始まりました。2016年はすべてのことがうまくいった、と感じておられるでしょうか。それとも、反省ばかりの年越しだったでしょうか。自分の思いだけでは、その価値を計ることはできません。自己満足と自己卑下と、その両方を神は御覧になっておられます。
 占星術の学者たちの安易で軽率な行動(=王は王宮に生まれるはずだという思い込み)によって、イエスの誕生はヘロデ王の知るところとなりました。人間がどれほど神の事を思い、そのために行動したとしても、それがすべてうまくいくとは限りません。そればかりか、自分勝手な思いによって、新しい危険を生むことさえあるのです。とはいえ、占星術の学者たちの行動が全く無駄だったというのではありません。神はその行いすべてを見、その存在そのものを受け止めてくださいます。それは、この出来事が単に悲しい出来事に終わらないことからも明らかでしょう。
 さて、イエスは誕生の際、東方の占星術の学者たちによって「ユダヤ人の王」として礼拝を受けられました。しかし、ヘロデ王の幼児殺害命令による魔の手が迫ると、すぐにエジプトへ連れなければならなくなりました。「王」と呼ばれながら、イエスを「王」として敬い、守る者など周囲には存在しません。現実のイエスは、「王」なる救い主どころか、自分の身さえ守ることのできない弱い存在でしかありません。
 しかし、その弱さの中にこそ、救い主の本質は現れていたのです。キリストは。生涯において、あらゆる苦難と試練をその身に負い、人間を救うためにこの世に来られた方です。その姿は完全さを表現する者でも、超人であることを誇示するような姿でもありません。イエスはただ、神の助けと慰めと励ましを必要とする者となられたのです。それは、現実に生きる人間存在そのもの、弱い人間のあえぎ苦しみを御自身も味わい、その歩みの中で神による慰めを自らが受けることによって、「神の慰めを受ける人間」を体現されました。そうすることによって、イエスは「人間が神の慰めを与えれれるべき存在であること」を明らかにされたのです。
 そのように無力な幼子イエスを守るために大切な働きをしたのは、マリアの夫ヨセフでした。このヨセフに、主の天使は三度夢で現れます。
 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」」(マタイによる福音書1:2000)
 占星術の学者たちが帰って行くと主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」」(マタイによる福音書2:13)
 「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」」(マタイによる福音祖y2:30)
 ヨセフは黙々とその命令に従いました。「ヨセフは起きて」(マタイによる福音書2:14,2:21)とは、神の言葉に答えるヨセフの姿そのものです。
 自分の身から出たのではない子供のために、ヨセフが払った犠牲はどれほど大きなものだったでしょう。あkれの生涯は、マリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを受け止め、その命を守るという課題に献げられました。神の救いの計画は、ヨセフの信仰の服従を通して、前進していきました。
 そして、わたしたちも、ヨセフのように生きようとするならば、ヨセフと同じような犠牲を伴って来るでしょう。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイによる福音祖y16:24)
 しかし、それによって逆に、わたしたち自身が支えられるという経験をするのではないでしょうか。そして、わたしたちはそのことを信じるがゆえに、どんなときにも希望を持って、この世の困難な課題に、真剣に、しかし心のゆとりを失わないで、立ち向かう勇気が与えられるのではないでしょうか。
 神が歴史に介入される時、そのしるしとして与えられる虁児は「インマヌエル(神共にいます)」という名でよばれます。
 「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「j神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1:23)
 神が行動を起こされる時、それはか神もまた苦しみを受けられるという事実を示しています。わたしたちの神は、苦しみを知っておられる方です。その神と共に、わたしたちも「起きて」、新しい一年も力強く一歩を踏み出しましょう。


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