「白い衣」ヨハネ黙示録7章9-17節  2017年10月22日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 聖書が伝える最も大切なメッセージは、「生きろ」ということです。隣人と共にどう生きていくのか。また自分の人生を全うするとはどのようなことか。聖書を通して、また先達たちの生き様を通して、私たちに伝えられています。
 しかし、生きていく中で辛いこともあります。今の私たちに留まらず、先達たちも悩みの中にありました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、(あなたの)神である主を愛」(マルコによる福音書12:29)する。
 「隣人を自分のように愛」(マルコによる福音書12:30)する。イエスが教えてくださった、最も大切な教えです。完全に実行することは難しいけれども、少しでもその領域に近づけるように努力しています。しかし、イエスの言葉通りに生きたとして、いったい何が生まれるというのか。この地上に生きる者として、キリスト者は何を期待すればいいのか。
 その問いに対する一つの答えが、ヨハネの黙示録の伝える「白い衣」です。人は生きている間、悩み続けている。迫害に耐え続けている。この苦しみは、生きている時だけでなく死んだ後も続くのか、と問われる時、神は必ずそれに報いてくださるのだ、と聖書は言います。この世の価値観や人間関係、それら一切と関係のないところで、神は信じる者に救いを与えてくださるのだ、と人々に希望を与えようとするのです。
 天に引き上げられた信仰者は、子羊の血で洗われた白い衣を着ています。血で洗うことなどできはしない、それが私たちの常識でしょう。ここで、「白」は象徴的な色として、救いや清めを意味し、「赤」は、血の色に代表されるように、苦しみや受難を意味しています。「白」は復活、再臨を象徴し、「赤」は聖霊降臨、受難日(受苦日)を象徴します。「血で洗われた白い衣」とは、白(救い)に至るためには、赤(受難)を通らなければならない、ということを意味します。もっとも、この血が死を意味しているからと言って、即座に殉教という言葉を思い出すのは短絡的でしょう。
 ここで大切なのは、衣を洗うために用いられるのが「子羊の血」であるということです。子羊とはキリストのこと。つまり、子羊の血によって洗った衣とは、キリストの受難によって救われることを意味します。ですから、白い衣を着ている者とは、キリストの死によって新しい道を開かれ、その道へと招かれ、キリストの復活を知り、その道を忠実に歩んだ人のこと。ヨハネの黙示録が伝えているのは、キリストの十字架によって救われた一人一人が集められ、何の気兼ねもなく、何のためらいもなく、何の邪魔をされることもなく、ひたすら神に仕えることが出来る、そういう救いがくるのだ、ということなのです。
 そして、子羊が彼らの牧者となる。子羊がそこに集まっている群衆たちのことを飼い、守り、支える。でも、これも常識的に考えれば逆です。私たちの常識を覆しながら、神は全てを成してくださると聖書は伝えています。神が、キリストが、命の水の泉へ導かれる。神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。今までの苦しみは全て消え、そして新たな命として神の御許に復活していく。神の国が完成するその時を共に喜びを持って迎えることが出来る。だから安心して今を生きなさい、と。その時がいつなのか、神にしかわからない。けれども必ずその時が来るから、今を精一杯、安心して生き切りなさい、と。
 そのような一日、一日の積み重ねが私たちの一週間であり、一ヶ月であり、一年であり、一生です。毎日、同じことの繰り返しのように思えますが、神はそこにリズムを与えてくださっています。一週間過ごせば日曜日がやって来ます。週の最初の日、神の御前に集い、礼拝を通して神と出会い直し、神の思いに気づき直し、そして一週間を歩んでいけるというステップを作ってくださっています。そのような一週間のステップを順番に繰り返していくことで、私たちは神の御許(みもと)へと続いていく螺旋階段を上っています。一歩、また一歩と歩んでいます。それは、私たちの目には堂々巡りに見えるかもしれません。しかし、その一歩は、着実に神の御許へと続いています。そして、いつ行けるのかはわかりませんが、その到達したところには、白い衣を着た先輩たちがたくさん待っていて、「よう来たな。さあ、一緒にこの白い衣を着て神を礼拝しよう」と語りかけてくれます。「今まで大変な思いをしてきただろう。けれども、もう大丈夫だ。あなたが精一杯生き切った人生を神は毎日、毎日見ておられたのだ。一週間、一ヶ月、一年、そして一生を見ておられた。安心しなさい」。辛い時、苦しい時こそ、その希望をもう一度新たにしたい。その希望があるということを思い出したい。
 「賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン」(ヨハネの黙示録7:12)。毎週、説教後にこの聖句を祈って います。牧師がどのように神の言葉を取り次ごうとも、その言葉の先には必ず救いがあるのだと信じて祈っています。私たちが行き着く先には、必ず希望があるのだ、と。白い衣を着て神を賛美するその日まで、精一杯、希望を持って生きていきましょう。


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