「忍耐して待ち望む」ローマ8章18-25節  2017年9月3日礼拝説教  北村 裕樹牧師

  私たちの生活は様々な悩み、苦しみに満ちあふれています。自分自身に関わる悩み、家族に関わる問題、私たちを取り巻く社会に関わる問題、そしてその全てを内側に含む世界に関わる問題……。また、イエス・キリストが私たちに与えられることによって、地上には平和が満ちあふれたはずでした。それなのに、この世界の現状は、その平和な状態とはかけ離れたものとなっています。個人的な対立から政治的な対立、民族の問題、社会制度の問題……。平和はいったいどこへ行ってしまったのかと悩む時、私たちはこの世に働いているはずの神の力を疑ってしまいます。
 そこにこそ、人間の最も大きい苦しみがあります。私たちは日常、目に見える苦しみを苦しみとして捉え、それに囚われています。しかし、私たちを取り巻いているのは目に見える苦しみだけではありません。目に見えない苦しみ、自分では気づいていない苦しみをも、私たちはまた背負っています。それは、神に対する人間の態度として表れてくる苦しみです。
 イエス・キリストの復活より後、今日に至るまで、神の与える救い、神の国はその完成に向かって進んでいます。それは間違いありません。しかし、その救いの完成への途上にある私たちは、その時が本当に来るのか、わからなくなっています。神が必ず果たしてくださるという約束を信じたいと願うその思いと、果たしてそれが本当のことかと悩む心の隙間に生じた疑いに苦しむのです。
 もちろん、私たちはその苦しみが取り除かれることを望んでいます。目に見えない苦しみだけでなく、目に見える苦しみも取り除いてほしいと願っています。そのような時、私たちは神に願うでしょう。それは神を信じる者にとって当然のことであり、神により頼む者の姿です。しかし、その願い、その祈りは時として、自分自身のため、自らの肉の欲望のためにだけ用いられてしまうことがあります。今、この時、地上でもたらされることだけを期待してしまう時、私たちの信仰は歪んでしまいます。
 地上での生活に満足したい、人よりも優れた人間になりたいという願いは、この地上に生きる人間として当然生まれてくる願いです。そして、私たちは少しでも「良い人間」になりたい、良い人だと思われたいと願っています。これも決して悪いことではありません。しかし、その願いは段々とエスカレートし、必要のないものまで願ってしまう結果を生みかねません。そして、自分に都合のよいことばかりを追い求めてしまうことは、やはり肉的に生きてしまう人生を生み出してしまうでしょう。全てを神に委ねるというキリスト者の生き方とは、どこかずれてしまいます。
 そのような時、私たちはやはり最初に立ち返らなければなりません。私たちがその最初から大切にしてきたこと。それは、終わりの時に神が私たちに救いを与えてくださると約束されていること。その約束が必ず果たされるものであると信じること。それが、私たちキリスト者がキリスト者として存在する、最も根源的な力となっています。神の栄光が実現される時、神の支配は完成する。神の国が到来した時、その力によって、また、その光り輝く輝きの中に、本当の救いの世界が完成する。私たちはその時を待ち望み、神に従って歩んできたはずです。その初めの思いを思い出し、歩みたいと願います。
 しかし、将来もたらされる栄光を信じ続けることは非常な労苦を伴います。今、私たちを取り巻く世界にあっては、純粋にそのことを信じるだけでも、多くのエネルギーが必要になるでしょう。私たちの周囲には、様々な誘惑や迫害、困難が待ち受けています。私たちは、その誘惑や迫害に負け、信じることを諦めそうになることさえあります。
 これは今の私たちに限ったことではありません。イエス・キリストの復活の後から、その復活を信じて神に従ってきた、数多の先達たちもまた、その悩みを持ち続けていました。この二千年の間、信じ続けるその苦しみを、人は受け続けてきたのです。
 「その、苦しみ続けてきた、私たちキリスト者を支えた言葉。それが、今日のパウロの言葉です。パウロは、神を信じる者にとってその「苦しみ」は取るに足りないものであるとはっきり告げています。もちろんそれは、将来もたらされる神の栄光と比較してのこと。
 神の栄光が現されるのは将来のことですが、今すでに、私たちには聖霊によって、その神の子としての身分が授けられています(ローマの信徒への手紙8:16-17)。まだその資産を受けとってはいませんが、すでに神の相続人としての立場を与えられています。しかし、そのことはまだ明らかにはされていません。終わりの時に至った時、人間的な試みや、そのむなしさから完全に自由にされた時になって初めて、私たちが神の子であることが明らかにされます。
 その終わりの時はいつやってくるかわかりません。「その日、そのときは、誰も知らない」(マルコによる福音書13:32)とイエスが言われているその時が来るまで、私たちは地上に生き、様々な苦しみと共に歩み続けるのです。
 時に神を信じられなくなるような大きな苦しみを味わい、うめき続けながら、私たちはそのときを待ち望んでいます。その苦しみやうめきと同時に、将来必ず、その望みが叶えられることを私たちは知っています。その希望を持って生きています。「忍耐して待ち望む」とは、我慢して、自分を押し殺して、下を向いて待つことではありません。たとえどのような状況であろうとも、神を見上げ、目標を目指して歩むこと。救いの希望を持って生きること。神の救いの御業を信じて生きるということです。私たちは、いつか必ず叶えられるその救いを待ち望みつつ、信じて歩み続けるのです。
 そして、私たち一人一人が救いを信じて歩む時、私たちは初めて、自分の立場を捨てることができるようになります。そうすることによって、立場の違う他者を受け入れ、共に歩むことができるようになります。そして、来るべき新しい世界を、他者と共に作り出すことができるようになります。おそらくそれが、本当の意味での神の国の到来であり、神の平和の実現といえるでしょう。
 神の世界が完成されるその時まで、忍耐して待ち望み、約束を信じて、顔をまっすぐ神に向けて歩んで参りましょう。


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