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「誘惑を受ける。」マタイ4章1-11節 2017年2月5日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 人は相手を試そうとします。昨日許されたことが、今日許されるとは限りません。全くその人自身でない限り、その気持ちがわかろうはずがありません。ですから、毎日試します。その愛を、その思いを推し量ろうとします。自分を中心にして、相手から向けられている愛の強さを確かめようとするのです。
 ですから、「神の愛を確かめる」という行為は、結局、自分にとって都合の良い神を求めることに過ぎません。信仰の証しを求めることは、結局、自分中心の信仰を露わにします。自分だけが良ければよい、という自分勝手な信仰です。聖書に描かれるイスラエルの多くはそのように描かれています。
 にもかかわらず、聖書は神がそのようなイスラエルの人々を見捨てた、とは言いません。それどころか、その身勝手な要求に応えてさえおられます。どれほどわがままに、どれほど自分中心に人間が生きていようとも、その人間を見つめ、愛してくださる神の姿がここにあります。自分の不安を相手に押しつけて、自分だけは心の平安を得たいと願う自分勝手な人間を優しく包み込み、大きな愛で満たしてくださいます。時には厳しい父親のように叱ることもあるでしょう。しかし、もっとも根本のところで「あなたを愛している」と呼びかけ続けてくださっているのです。
 その神の愛に私たちは生かされています。ですから、その愛に身も心も委ねていれば安心できるはず。ところが、不思議なことに、いつも壁にぶつかってばかりです。そのような人間の姿は枚挙にいとまがありません。その不安は、人間の欲望と深く結びついています。
 イエスは荒れ野で四十日間断食されました。そして、空腹を覚えられました。これは人間だから当然のことです。そこに、誘惑する者、悪魔が来て言います。
 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイによる福音書4:3)
 あなたにはすばらしい力がある。だから、その力を自分のために使ってはどうか、と勧める言葉です。自分の欲望を満たすために、自分に与えられている能力を使えばよいのに、という言葉でもあります。人間の欲望を満たすことは簡単。それに対応するものを与えればよいでしょう。
 しかし、悪魔の巧妙なところは、そのことを強制しないところにあります。むしろ、その言葉によって相手が決断することを促します。神があなたを大切に思っているならば、そんなことくらい簡単なことだ。だから、精一杯自分の思うとおりに生きればよいのに、と誘惑する言葉なのです。
 「あなたならできるはず」「あなたなら大丈夫」「あなたのために」。さも、あなただけが大切ですよ、と言いながら悪魔は近づいてきます。あなただけが満足ならば、それでいいのではないか、という誘惑です。自分中心の生活が守れれば、それで十分だ。その言葉に納得して、一歩を踏み出すことを悪魔は期待しています。いつも「自分が」「自分だけが」「自分さえ良ければ」と思っている人ほど、この言葉に弱いもの。
 悪魔の言葉に従えば、その瞬間の思いを満足することは簡単にできてしまいます。おなかが空いている時に食べ物を与えられれば満腹します。飛び降りたとしても、神が守って怪我なく済めば嬉しいでしょう。世界の支配や権力、富を得ることもまた、喜ばしいことです。
 しかし、その道は本当に正しい道なのでしょうか。一時の満足は、次の欲望を生み出します。おなかが満足すれば、もっとおいしいものを求めます。神がいつも守ってくれるのならば、何をしても平気だと思うようになります。人間の欲望は限界を知りません。その欲望はどんどん大きくなり、いつしか自分の思い通りに神を動かすことを求めるようになるでしょう。結局、自分の欲望を満たしてくれる存在としか神を見なくなります。「本当に」あなたを愛し、あなたのために働かれている方から、目をそらすことになってしまいます。
 イエスは常に私たちの一歩先を進んで行かれます。私たちが必ず直面する信仰の問題を私たちに先立って、その身をもって示されました。人間ならば誰でも持っている欲望をくすぐる誘惑を受けられました。神を試したくなる思いが人間にあることを明らかにされました。そして、人間のその小さな欲望ではなく、神の本当の愛の中に生きていくことが大切だと教えておられます。私たちは、このイエスの思い、イエスの姿に倣いたい。
  繰り返します。私たちは神に愛されています。ですから、心配して試さなくても大丈夫です。
 教会の暦はレント(受難節)を迎えました。キリスト者は原始キリスト教の時代から、篤い信仰心を持ってキリストの受難と復活を記念し、この期節を過ごしてきました。改めて自分自身を見つめ直し、誘惑と向き合いましょう。神の思い、神の愛に目を向けましょう。そして、神の思いに応えるとはどのようなことか考えながら、毎日を過ごしてまいりましょう


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