「話さないではいられない」使徒4章13節~31節  2018年6月3日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 ユダヤ人の議会、サンヘドリンでは、多くの議員たちがペトロとヨハネを取り囲み、じっと目を注いでいます。彼らは、ペトロとヨハネに対し、イエスの名によって語ることを禁じて、脅しました。もし私たちが、そのような仕打ちに遭ったなら、どうするでしょう。尻尾を巻いて逃げ出してしまうかもしれません。
 けれども教会は、そしてペトロとヨハネはしっかりとそこに立っています。
 「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(使徒言行録4:29)
 権力者の脅しが迫る時こそ、沈黙ではなく語ることを、伝道することを祈り求めました。
 このように、使徒言行録の中には「大胆さ」や「大胆に語る」という言葉が使われています。
 しかし、弟子たちが最初からそうした「大胆さ」をもっていたわけではありません。ここでは勇敢に立ち向かっているペトロ、使徒言行録においてあれほど持ち上げられ、偉大な人物に見えるペトロは、イエスが十字架につけられる直前、大祭司の庭で、イエスのことを知らないと言い張りました。「あなたのためなら死ねます」と言っていた彼が、です。そして、他の弟子たちと一緒に逃げ出し、主の十字架の現場には立ち会いませんでした。
 また、いつでも彼らが「大胆」でありえたというわけでもないでしょう。むしろ、「大胆であれ」という呼びかけが繰り返されるということは、「大胆でありえない」ような弟子たちの現実や状況があったことを前提としているのではないでしょうか。イエス・キリストを証しすること、宣教することは、弟子たちにとって恐ろしいことであり、さまざまな犠牲を伴う行為であったことを、使徒言行録はいろいろな箇所で証言しています。
  すでに見たようにペトロやヨハネが経験した逮捕や取り調べ、命令や脅しは、他の弟子たち、ことにパウロもまた経験したことでした。牢獄や鞭打ちといった公式の刑罰もありました。また、私的なリンチのようなかたちで行われる暴力や迫害もあります。見知らぬ町、見知らぬ人々が、彼らに向ける嘲笑や無視は、弟子たちの心を傷つけます。ステファノの殉教は、心理的抑圧を生み出したことでしょう。
 しかし、こうした境遇の中で、弟子たちは町から町へ、村から村へと渡り歩き、あるいは逃げ回りながら、「大胆に」語り、また行動したのです。
 それは、彼らが特別だったからできた、というのではありません。逃げだし、尻込みする弟子たちを大胆たらしめたもの、それが聖霊の力です。自分の力ではどうしようもない現実に立ち向かい、勇気を出して一歩を踏み出すことができたのは、全て聖霊の働きによるものです。聖霊が炎や風にたとえられるのは、聖霊の力に、誰も止めることのできない力を感じていたからではないでしょうか。人間はその大きな力に押し出されるままに突き進むしかない、と。
 そのような神のなさる救いの業に出会い、聖霊の力に打たれ、突き動かされたペトロとヨハネは、権力者たちの脅しにひるむことなく、イエスのことを語り続けたのです。
 キリスト者はどこか控えめで、内省的であるというようなイメージを持たれることがあります。しかし、それだけがキリスト者の全てでしょうか。聖書が伝える弟子たちの姿は、それだけではありません。ペトロもパウロも、人々の前で臆することなく、「大胆に」語っています。
 「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒言行録4:20)
 これこそ、聖霊によって内面から動かされた人々が持っている力です。その力は誰にも止められません。使徒言行録に描かれているように、権威も、大声も、暴力的な脅しも、聖霊によって内面から突き動かされた弟子たちにとっては無力なものでした。そして、その力は弟子たちばかりでなく、そこに集っていた人々にまで及ぶものとなっています。
 この聖霊が私たちに注がれているのだ。それが、ペンテコステが教えてくれた事実でした。特別な弟子だけでなく、私たち一人一人に聖霊が注がれている。弟子たちがその力に押し出され、大胆に語り出したように、私たちもまたその力に押し出されています。大胆に語るのは達者な口ばかりではありません。背中で語ることもあります。足跡を示すこともあるでしょう。また、残り香が雄弁に語ることもあります。私たちも、私たちに与えられた恵みの多さと大きさを、自分自身で大胆に語っていきましょう。


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