「互いに仕え合いなさい」エフェソの信徒への手紙5:21~6章4節  2018年8月5日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」(エフェソの信徒への手紙5:21~22)
 この言葉は、結婚式の中で無批判に読まれ続けてきました。キリストと教会との関係を語る言葉が、いつの間にかいわゆる家父長制に基づいた夫婦関係を規定するものとなってしまいました。
 現代の家族や結婚関係には様々な問題があります。それを単純に定式化してしまうことはできません。ですから、この言葉から一面的な家族関係、夫婦関係を抽出し、それをキリスト者の理想像とするのは誤りです。むしろ、そこから解放する働き、一人一人が尊重される人間関係を作り出そうとする働きに目を向けたいのです。
 創世記によれば、神の似像として造られた人間は、「極めて良い」存在です(創世記1:31)。当然、その神が、女に対する男として、また、男に対する女として造られた両者が、根源的に平等であることは言うまでもありません。さらに、「仕える」というのは、一方が基準でもう一方がそれに従うという意味でもありません。共に一つの秩序の下に立つという意味です。神の前に共に並び立ち、同じ方向(=神の示す道)を目指して共に歩むという意味です。
 「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」(エフェソの信徒への手紙5:24)
 これは「キリストに仕える」という生活が別にあって、それと平行(=どこまでも交わらないこと)して「夫に仕える」という生活がある、という意味ではありません。「すべての面で」と言われているように、「キリストに仕える」ことの具体的な事例として、「夫に仕える」ことがあります。「夫に仕える」ことにおいてこそ、「キリストに仕える」ことが現実化するということです。けれども、それは動物的な従属ではありません。ましてや隷属でもありません。夫と共に生きる主体として、「互いに仕え合」うのです。ゆえに、これが「夫」の側にも求められていることは当然でしょう。
 「夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」(エフェソの信徒への手紙5:28)
 この言葉も女を一段低く見ているのではありません。また、自分自身を愛する自己愛を拡張する意味で、妻を愛せよと言われているのでもありません。
 夫婦や親子は何もしなくても、「近い」存在であるように思われています。まるで「自分の体」のように、あるいは「空気」のように、夫婦や親子が「近いもの」であり、「自然なもの」であるのは、決して自明のことではありません。一見、近く、自然に思えるこの関係は、同時にいかにもろいものであるか、私たちは十分知っているはずです。この「近さ」の中には「遠さ」が含まれていることを忘れてはならないでしょう。夫婦、そして家族が結び合うのは、互いにそうあり続けることを「約束」しているからです。ですから、常に繰り返し「約束」し続けていかなければ、その関係は自ずと崩壊してしまうでしょう。
 「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」(エフェソの信徒への手紙5:33)
  現実生活に生かされない、いかなる高尚な論議も無意味です。大切なことは、これらの言葉を聞くことであり、実践していくことです。そしてまたそれは、自然的ないわゆる愛情を言うのでもないことを思い起こさなければなりません。
  私たちが他者を受け入れ、共に生きることの根拠は、私たち自身がありのままにキリストに受け入れられているということにあります。それは家族についても同じでしょう。
  「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(エフェソの信徒への手紙5:21)
  互いにキリストの前にあって、キリストへの畏れをもって、共に生きていくことが求められています。神の恵みの下に、その被造物として互いに生かし合うことが求められています。共に神を見上げ、互いに仕え合う。平和とは、そのたゆみない共同作業の先にあるのです。