星を見て マタイによる福音書2章1-12節  2019年12月29日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 幼稚園や教会学校で行われるクリスマス劇では、「三人の博士」が「あの大きく輝く星は何だろう」と驚いてみせる場面があります。けれども、不思議なことに、聖書においてその星を見たのは東方の学者たちだけでした。他には誰も、星を見たらしい人物について記されていません。エルサレムの人々も、ヘロデ王も、そのお抱えの学者たちも、東方の学者たちに尋ねられるまで、星に気づいていたとは思えないのです。
 実際、聖書には「大きく輝く星」とは全く記されていません。もしかしたらこの星は、それこそ専門の学者でなければ気がつかないほどの、小さな目立たない星だったのではないでしょうか。砂漠の上、雲もなく満天に広がる星空の一隅に、いつの間にかそっと加わった新しい小さな星。その小さな星に気づいたのは、いつも空を見続けている、ごく一握りの人たちだけでした。そしてついに、イスラエルの都、エルサレムに近づいた時、彼らは「エルサレムこそが星の示した場所に違いない」と喜び勇んで町へと入っていきました。
 ところが、エルサレムに到着した途端、彼らを導いてきたはずの星は、彼らの上からいなくなってしまいました。訝しい思いを抱きつつ、また一抹の不安を抱きつつ、彼らはエルサレムで探し始めます。「ユダヤ人の新しい王はどこにお生まれになりましたか」と。そこで聞きつけた噂は、悪評高いヘロデ王が、ユダヤ人の王の誕生について不安を覚えているというものでした。
 「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。」(マタイによる福音書2:7)
 そんなところに、ヘロデ王からの呼び出しです。もしかすると、自分たちもその噂を広めた張本人として罰せられるかもしれません。危険な噂を持ち込んだ連中として処刑されることもあり得ます。ただでさえ、ユダヤ人の閉鎖性を実感しているところでした。異邦人である自分たちを仮想敵にすることで、ヘロデ王は人心掌握を図っているかもしれない……。
 学者たちが腹をくくって王宮に出向いてみると、存外、丁重なもてなしを受けました。半分は安堵したでしょう。でもまだ気は抜けません。そこで、勇気を出してヘロデ王に尋ねてみました。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書2:2)
 「すると、ヘロデ王は案外あっさりとその場所を教えてくれました。祭司長たちや律法学者たちが、すでにその場所を突き止めた、と。
 「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。』」(マタイによる福音書2:5)
 そればかりではありません。自分も学者たちと同様に、拝みに行きたいとまで言うのです。
 「そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。」(マタイによる福音書2:8)
 「 ヘロデ王の真意はともかく、学者たちは藁にもすがる思いでこの言葉に従いました。結果は、皆さんもご存じの通りです。ベツレヘムで生まれたばかりのイエス・キリストに出会うことができました。
 しかし、学者たちがキリストに出会えたのは、「東方でその方の星を見た」からではありません。一度星を見たから、その結果、導かれたのではありません。彼らは一度、星を見失ったのです。自分勝手に望む結果を得ようとして、星を無視してエルサレムに入り、迷ってしまいました。見失った星を探そうとせずに、人間の知恵に頼ろうとしました。そして、不安を覚えつつも、ヘロデ王の出した結果を信用しました。とにもかくにも、学者たちは迷い続けていたエルサレムから一歩を踏み出しました。
 すると、東の地で見た星が再び現れ、学者たちをベツレヘムへと導いたのです。彼らは、自分たちがベツレヘムへ行くと知っているのだから、星など必要ないではないか、と思われるかもしれません。でもやはり、星は必要なのです。いつもすぐに星から目をそらし、自分の見たいものだけを見る人間にとって、行くべき道を指し示す星は必ず必要なのです。
 そして、学者たちがキリストに出会えたのは、再び星を見出し、その「星を見続けた」からです。
 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイによる福音書2:10)
 学者たちは、幼子キリストに出会う前に星を見て、喜びに溢れています。一度見失った星が、再び彼らを導き、その場所へと連れてきたことそのものが喜びだったのです。星さえ見つめていれば、確実にその恵みに与ることができる。それがわかったから、彼らは喜びました。でもそれは、結果が予想できたからではありません。この星に従いさえすれば、たとえどのような状況であろうとも、確実にその恵みに向かっているのだとの確信が、彼らの喜びとなったのです。
 私たちは、とかく結果ばかりを気にしています。この物語でも、「学者たちは希望通りキリストに出会えたけれど、私たちは……」と思います。私たちには星さえ示されないのだと初めから諦めてしまいます。私たちにも星が示されているにもかかわらず、その星を探そうともしないで、人間の知恵に頼ろうとしています。そして、望んだ結果が得られないとますます落ち込んでいくのです
 私たちも結果そのものではなく、それを指し示す星に目を向けましょう。すでに星は示されています。小さい輝きかもしれませんが、それは確実に私たちの前にあります。2020年こそ、「星を見て喜びにあふれる」一年にしようではありませんか。



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