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「皆に仕える者」マタイ20章20-26節 2017年4月2日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 弟子のヤコブとヨハネの母がイエスの前に出てきて、何かを伝えようとしています。思わず、イエスも「何が望みか」と聞いてしまうほどです。
 問われて、彼女は口を開きます。  「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(マタイによる福音書20:21)。
  彼女は、息子たちを弟子の中でも最も位の高い弟子として認めてほしい、とイエスに願い出ました。母が願うことに対して、二人の息子は異議を唱えません。ということは、彼らもまた、それを願っていたと考えられます。
 しかしその願いは、到底イエスによって認められるものではありません。また、他の弟子たちにしても、この母親をいさめても良い場面です。「お母さん、あなたが持つその願いはわからないでもありません。しかし、自分たちがイエスに従ってきたのは名誉や富のためではないのですよ」と伝えることもできたでしょう。母親ばかりでなく、ヤコブとヨハネを戒めてもよかったかもしれません。「私たちが働いてきたのは、神の福音を人々に知らせ、神の栄光が現されるためではないか」と。
 ところが、彼らはそうしませんでした。母の願いを否定することもしません。また、二人を戒めることもしません。確かに彼らは腹立ちの様子を見せてはいます。けれども、それは義憤ではありません。自分たちも同じことを願っていたから、彼らは憤ります。自分たちの先を越されたことに腹を立てていました。彼らもまた、自分こそイエスの一番弟子の地位であると認められることを望んでいたのです。ですから、ヤコブとヨハネの母や、その息子たちばかりを責めることはできません。他の弟子たちも、同罪であると言えるでしょう。
 本来、宗教集団においては、権力抗争などあってはならないはずです。それを求めてしまえば、何の目的で集まっているのかわからなくなります。ですから、団体の内部にあっては、抗争よりも協働が優位を占めるべきでしょう。しかし、現実には、宗教集団においてこそ、人間的な権力が志向される場となってはいないでしょうか。「仕える」どころか「仕えさせる」ことが起こっていないでしょうか。「僕となる」どころか、かえって「頭となろうとする」ことが意図されていないでしょうか。「与える」より「得る」ことが目指されることが現実に起こってはいないでしょうか。それは単なる人間的な争いごとに留まりません。ことが信仰に関わるだけに、宗教集団はたとえば、「破門」「異端審問」などの手段をもって、一種の暴力装置と化してしまうことが起こりうるのです。
 十字架への道を歩もうとするイエスの目に、この弟子たちの様子はどのように映ったことでしょうか。
 神の福音を人々に宣べ伝える者は、自分の地位や名誉を求めることがあってはならないでしょう。そんなことをすれば、当然、伝えられるべきものが伝えられなくなってしまいます。自分が伝えたいと思うことだけを伝え、自分の都合に合わせて神の姿を歪めてしまうことになってしまいます。信仰者としてあるまじき姿です。けれどもイエスは、このような弟子たちを切り捨ててしまわれません。無理解な弟子たちにこそ、イエスは神の言葉を繰り返し教えられたのです。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイによる福音書20:26~27)
 逆説的なこの言葉こそ、イエスの最も大切な教えです。人々に仕え、人々を生かすことこそ、イエスが地上に来た目的です。どうか、それに倣ってほしいという願いでもあります。
 しかし、最後まで人に仕え続けるということは、どういうことでしょうか。イエスにとって、人に仕え続けることの究極は、十字架の道をひたすら歩むことでした。そして、イエスはその道を全うされました。もちろん、その道は当然、平坦な道ではありません。それでもなお、イエスは私たち一人一人のためにその道を歩み続けられます。
 その道を歩みたいと願います。しかし、それは私たちにとって厳しい道でしょう。イエスと直接出会い、直接語り合った弟子たちでさえも、その道を歩み続けるのは、険しく厳しかったことを聖書は伝えています。ペトロは真っ先に逃げ出しました。そのような弟子たちの現実をイエスは知っておられました。熱意だけでは歩み続けることはできません。人間的な思いだけでは限界があります。
  それでもなお、人々に仕えようとするところに神の道はあります。その歩みをイエスは見守り、支えてくださいます。祈りつつ、そのようにありたいと願い続けましょう。まずは祈ることを通して、互いに仕え合う道を歩み始めましょう。そして、皆が互いに仕え合う時、神の国はその完成に向かって前進していくのです。


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