わたしが命のパンである」ヨハネ6章36-43節  2019年5月12日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 幸せって何でしょう。ポーランド出身の社会学者、ジグムント・バウマンは「幸福を生み出すと期待される商品を買い、消費することが、近代社会の幸福の基本」であり、「近代社会における貧困というのは、買い続けることができなくなった状態である」と言います。それに対して、日本の社会学者、山田昌弘は自著『幸福の方程式』において、いつの間にか「ブランド商品を買い続けること=幸福」という「物語」が、「豊かな家族生活をつくること=幸福」という「物語」をしのぐようになっていったと述べています。そこまでは理解できます。しかしなぜか、それに対する解決方法は自己肯定であり、「人生を縛ってしまうモノ」からの脱却であると述べるのです。「新しい幸福をもたらす消費行動が始まっています」とも。自分で自分を肯定できるならば、初めからブランド商品に頼る必要などありません。そもそも消費することによってしか幸福を考えられないとするならば、それは自己肯定とはほど遠い状態と言えます。「消費」=「幸福」という物差しでしかものを考えられないのでしょう。
 けれども、それは今に限ったことではありません。人々はイエスに「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(ヨハネによる福音書6:34)と求めました。この言葉の背景には、出エジプトを果たしたイスラエルの人々が、荒れ野で神からマナを与えられて、養われた物語があります(出エジプト記16:4~16)。その中で、人間が必要以上に集めたマナが虫に食われる、という物語があります。人々は満たされていながら、喪失感を経験するのです。自分のためだけに集めようとした時、神はその恵みが十分であることをわからせるために、実力を行使されます。人々がイエスに求めた言葉は、何千年も昔のものでありながら、現代の私たちの購買—消費—喪失感という抜け出すことのできない循環運動を物語っているのではないでしょうか。
 だから、この「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(ヨハネによる福音書6:34)という訴えには、「つい先ほど、イエスは実際にそのパンを私たちにくれたではないか。大勢の群衆が満足したではないか。そのパンをいつも私たちが満足するだけくれればよいのだ」という人々の欲望が透けて見えます。イエスを自分の欲望を満たしてくれる道具としか思っていません。
 私たちもまた同じでしょう。イエスの恵みを消費物だと思っていないでしょうか。イエスのノウハウをため込んで、それを消費することが幸福だと思っていないでしょうか。自分の中に次々と恵みが溜まっていって、それを少しずつ消費することで幸福を得られる、と勘違いしてはいないでしょうか。イエスの恵みはマナと同様、翌朝になると虫がついてしまうというのに。
 そのような人々、そして私たちに、イエスは全く違う救いの物語を語られます。それは「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネによる福音書6:40)という物語です。この物語は、イエスがこの世界に遣わされて、十字架の死に至るまで自分自身を人々にお与えになった、そして復活されたという事実によって成り立っています。その物語は、人間の目から見れば決して幸福なものとは言えないでしょう。十字架で処刑されてしまうのですから。けれども、それこそが恵みの物語なのだと神は言われます。それがイエスの復活です。イエスの復活によって、私たちはイエスの物語が神によって肯定されること、そして、私たちの物語を肯定されることを受け止めることができるのです。これこそが、本当の意味での自己肯定につながっています。
 ですから、イエスの言われる「命のパン」とは、私たちの腹を満たす物理的なものではなく、生きる力を失っている、失いそうになっている者たちを立ち上がらせる心の糧に他なりません。イエスこそが、イエスの物語こそが、その心の糧なのです。
 「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」(ヨハネによる福音書6:35)
 今、日本の自殺者は年間2万人を超えています。2003年には、3万4千人を超える方々が自らの命を絶ったという過去があります。それと比較すれば、確かに今は自殺者は減少していると言っても良いかもしれません。けれども、その中身を見てみると、私たちの未来が明るいとは到底言えないという現実があります。昨年度(2018年度)の統計によれば、15歳から39歳までの死因、第1位は自殺です。10~14歳、40~49歳では自殺が第2位と、社会全体から見れば「若い人」が、自ら命を絶っているという現実があります。自分は幸せではないと思って命を絶つ方々に、私たちは何を伝えることができるでしょうか。何を伝えなければならないのでしょうか。
  私たちはすでにイエスの幸福物語(=福音)を聞きました。それは、自分のために獲得し、自分のために増やし、自分のために使うという消費の幸福物語とは全く逆のものでした。自分一人の恵みとしてため込むのではなく、全ての者に与えられる恵みとして分かち合うもの、それが私たちに与えられている神の恵みです。
  イエスは「わたしが命のパンである」と宣言されました。今、私たちの目の前にも、生きる力を与える「命のパン」を必要としている人々がいます。イエスの弟子である私たちには、イエスの物語を知っている私たちには、その命のパンを人々の元に配る務めが与えられています。大それたことである必要はありません。まずは本当に些細なことから、目の前の一人から始めて参りましょう。


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