「わずかなパン種が」ガラテヤの信徒への手紙5:2~11  2018年7月1日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 熱心であればあるほど、不安も大きいものです。悪い考えや不安は、まるでパン種のように私たちの中で大きく膨らみます。一度覚えた不満や不安は、一朝一夕に取り除けるようなものではありません。じわじわと、また時には一瞬にして、不安が私たちの心と体とを満たします。熱心な信仰者が、些細なことをきっかけにして、神から離れていく姿を見る時、悲しさ、寂しさと同時に、無常を感じます。無論、それは当人にとって全く些細なことではないのでしょう。その人の心は不安に満たされ、そこにキリストが入る余地がない。いつの間にか、キリスト以外の何か、神以外の何かにすがるようになっています。
 私たちはいつもそのような不安に包まれています。「信じていれば」と頭ではわかっていても、それを信じ切れない自分がいます。神に全てを委ねて安心すればよいとわかっているのに、つい、自分で何とかしようとあがいてしまう。一晩待てば、信仰の花が開くのに、そのわずかな時間をも惜しんで、やれ水だ、やれ肥料だと不必要なことをしてしまうのです。
 求めることは悪いことではありません。むしろ、持っていない方が問題でしょう。もう今の状態で十分。これ以上、何を望むことがあろうかという姿勢は、神への本当の感謝を忘れてしまうことにつながります。神がいなくても自分一人で生きていけるとの慢心を生み出します。だから謙虚に、神のことを知りたい、もっと近づきたいと願うことは、信仰者として、ごく当たり前の思いであるはずです。
 ただ、その方法を自分勝手に定めてしまうことに問題があるのです。神が求めておられることは、本当はたった2つしかないのに、その神の思いを超えて、勝手に縛りをかけていってしまう。そして、神の求められる道からそれていってしまう。。
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイによる福音書22:37)
 「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書22:39)
 聖書は、神が求めておられることをはっきりと示しています。その神の思いを超えて新しい枷をはめる時、神の思いを超えた人間の思いに囚われています。神のためと思って始めた行為が、自己実現のための行為となります。目的と手段との立場が入れ替わっていることに気づいていません。そこにはもはや、神との親しい関係はありません。
 神はいつも、神に委ねて歩むことを私たちに望んでおられます。その神の眼差しに気づく時、私たちは安心に包まれるのです。もう一度、神の前でやり直すことができます。一度失敗したら、二度と顧みられることはない、という神ではありません。むしろ、何度失敗しても、挫折しても、それでもなお、御許へと引き上げてくださる方、それが神です。
 それでもなお、私たちは間違いを繰り返してしまいます。自分の判断で神の義を獲得しようとしてしまう。いつも、その試練にさらされています。
  パンドラの箱という話があります。パンドラという女性が開けてしまった箱の中には、あらゆる悪と罪とが詰まっていました。蓋が開いて、それら悪いものが全て出尽くしてしまい、もはや何も残っていないように見えました。しかし、よく見てみれば、箱の底には希望が残っていたという話です。
  私たち人間は、このパンドラの箱のようなものです。ありとあらゆる罪と不義とが自分の内に溢れています。神によって義とされていると頭ではわかっていながら、そのことが信じられなくなっています。だから、何とか義を感じたいと願い、いらぬ努力をしてしまうのでしょう。
 しかし、私たちというパンドラの箱を開けた時、中に詰まっているありとあらゆる罪と不義との隙間、底の方のほんのわずかな隙間に、義の種はすでに蒔かれています。今は完全に義とされているわけではありません。罪にまみれているかもしれませんしかし、いつの日か必ず、私たちのこの器は聖霊によって完全に義とされます。その日は必ず来ます。すでに蒔かれている義の種が芽を出し、花を咲かせる日が必ず来る。私たちはその希望を持っています。ペトロもパウロも、人々の前で臆することなく、「大胆に」語っています。
 その希望があるからこそ、私たちは生きてゆけるのでしょう。その希望を胸に、前を向くことができます。そしてこの希望こそ、私たちが信じ、守ってきた信仰そのものです。
 改めて、神の言葉に聞きましょう。神の思いに心を向けましょう。神の愛に溢れた眼差しに気づきましょう。不安な時こそ、苦しい時こそ、神の愛は私たちに注がれています。そのことを受け止めた時、私たちの心の中に与えられた義の種は、急激に膨らみ、私たちを満たします。そして再び、私たちは愛に溢れた生活へと導かれます。
 ただ主を主と仰ぎ、聖霊によって満たされる時、私たちの生活は神の御心に適うものとなるでしょう。神に与えられたパン種が大きく育ち、信仰に満たされた生活をする中で、私たちは少しずつ、完全な義に向かって歩んでいるのです。



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