イエスは荒れ野で四十日間断食され、そして、空腹を覚えられました。イエスは一人の人間として、当たり前に感じることを同じように感じられます。お腹が空くのは人間だから当然のこと。誰でも食べないで生きていくことはできません。人間としての普通の欲望を覚えることそのものを否定するのではなく、それを上回るものがあるということを伝えるのが聖書です。 そこに、誘惑する者、悪魔が来て言います。 そんな当たり前の事柄に、イエスは怒りを示されたのです。周囲はあっけにとられたことでしょう。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイによる福音書4:) 悪魔の誘惑と聞くと、何か特別に「悪いことをする」というイメージがないでしょうか。倫理的、心情的に「悪いことをする」方向へと導くもの、それが誘惑だと思っていませんか。そのイメージからすれば、この言葉のいったいどこが悪いのかということになります。しかし、そこにこそ、悪魔の誘惑の恐ろしさがあるのです。この言葉は、あなたにはすばらしい力がある。だから、その力を自分のために使ってはどうか、と勧める言葉です。自分の欲望を満たすために、自分に与えられている能力を使えばよいのにと促す言葉でもあります。一見すると何でもない言葉が、とんでもない方向へと導くのです。。 しかも、悪魔の巧妙なところは、実際にそのことを自分では行わないというところにあります。人間の欲望を満たすことは簡単です。それに対応するものを与えればよいのです。だから、自分でパンをどこかで調達して与えれば、それで満足させることもできるはずなのに、そうしようとはしません。自分では責任を取りません。また、たとえ相手がそのことができるとわかっていても、強制したりもしません。「石をパンにせよ」と命じたりはしないのです。 これは、パンの誘惑だけに留まりません。神殿の屋根の端に立たせて言う言葉も同じです。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。飛び降りても助かるんだろう？」という問いかけの言葉です。高い山の上に立たせても、「私を拝むなら、これをみんな与えても良いのだけれど」と悪魔に妥協することを求めてくるだけです。いずれも、相手を強制する言葉ではありません。むしろ、その言葉によって相手が決断することを促す言葉です。神があなたを大切に思っているならば、そんなことくらい簡単なことだ。だから、精一杯自分の思う通りに生きればよいのにと誘惑する言葉なのです。 「あなたならできるはず。」「あなたなら大丈夫。」「あなたのために。」さも、あなただけが大切ですよ、と言いながら悪魔は近づいてきます。あなただけが満足ならば、それでいいのではないかと誘惑してきます。自分中心の生活が守れれば、それで十分でしょうとの言葉に納得して、一歩を踏み出すことを期待しています。いつも「自分が」「自分だけが」「自分さえ良ければ」と思っている人ほど、この言葉に弱いもの。すぐふらふらと歩み寄ってしまうでしょう。まだ家にストックがあるにもかかわらず、マスクやトイレットペーパーを買い占める人たちは、この誘惑に負けている一人と言えるかもしれません。 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』。」(マタイによる福音書4:10) 一時的に、瞬間的に私の小さな欲望を満たすことに満足するのではなく、私を愛し、私を導いてくださる神に全てを委ねる。この生き方こそが大切です。イエスは奇をてらったり、ごまかしたりされません。最も大切なことをはっきりと私たちに示されます。自分を中心とするのではなく、神を中心とした生活が大切だと。それは神を愛し、その神の愛に応える生活です。同じように神に愛される存在としての隣人を愛し、大切にする生活です。弱い者、小さくされた者と共に歩む生活です。自分だけが満足するのではありません。全ての人と共に歩む歩みに他なりません。 イエスは常に私たちの一歩先を進んで行かれます。私たちが必ず直面する信仰の問題を私たちに先立って、その身をもって示されます。イエスは、人間ならば誰でも持っている欲望をくすぐる誘惑を受けられました。神を試したくなる思いが人間にあることを明らかにされました。その一つ一つが、神から人間を引き離そうとする悪魔の誘いであることを、私たちに教えてくださったのです。そして、人間のその小さな欲望ではなく、神の本当の愛の中に生きていくことが大切だと教えられています。私が私であるために、まず第一にしなければならないことを示してくださっています まず、神を神としてその前に立つこと。「私は何者なのか」という問いに答えてくださる神の言葉に耳を傾けること。聖書はそのように生きたイエスの姿を生き生きと描き出しています。私たちは、このイエスの思い、イエスの姿に倣いたい。けれどもそれは、ある時突然、変わるのではありません。何か特別なことがあって急に変わるのではありません。今、この瞬間から私たちは変わっていくのです。今はまだ十分にできないかもしれません。それでも、私たちはすでに先立つイエスの背中を追いかけて、一歩を踏み出しているのです。「ただ主に仕えよ」との呼びかけに応え、神への篤い思いを胸に、日々歩んで参りましょう